個性を否定する宗教は、仏教だけ

日本人が個性を認めようとしないのは、大乗仏教の平等観から来ています(平等・儒教・尊王思想)。人間は個人ごとにそれぞれ違うということを認めたうえで、同じように扱おうというのではなく、「人間には個性の違いなどなく、全く同じなのだ。個性があるように見えるのはその人間が仏教の真理を理解していないために、世の中が歪んで見えているためだ」という考え方です。

戦前は大乗仏教の平等観が今ほど強くなかったために、個性の違いを許容する社会でした。その例として学校の飛び級制度があります。戦前の社会は学校の勉強の得意な子と苦手な子がいることを認め、飛び級や落第が当たり前にありました。日露戦争のころの日本の指導者には、ずいぶん変わった人がいましたが、そういう者を当時の社会は容認していました。

例えば、幕末には坂本竜馬のようなエジソン並みに変な人が活躍していました。日露戦争の時に、ロシアの革命勢力を大同団結させてロシアに革命騒ぎを起こさせ、戦争継続を不可能にしたスパイの親玉に明石大佐がいました。この人も相当な変物です。

日本人が創造的な仕事をして生き延びるためには、人間がそれぞれ個性的で違う、ということに気づくことも大事だと思います。日本人も大人になれば、人間はそれぞれ違う、ということが実感として分かってきます。ところが集団になると、個性を尊重しようという意見が無視されてしまうのです。大乗仏教の平等観には、まだそれだけ大きな影響力があります。

個性を尊重する社会にするのに大乗仏教の伝統が障害になっている、という事実を日本人はもっと自覚すべきです。仏教には様々な宗派があって、個性を否定する宗派ばかりではありません。おしゃか様は、別に人間に個性があることを否定していません。個性を否定する発想は仏教のごく一部にしかない、ということを多くの人に理解していただきたいと思っています。

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