カラカラ帝は帝国内の全自由民にローマ国籍を与えた

カラカラ帝はローマの皇帝で、大浴場を作ったことで一般には知られています。塩野七生は『ローマ人の物語』で、「カラカラ帝は、ローマが滅んだ原因を作った」と厳しい評価を下しています。

イタリア半島の自由民成人男子は全員がローマ国籍を与えられていましたが、それ以外の属州の自由民はローマ国籍を持たず税金や法的な保護などの面で差別されていました。こういう状態がおよそ300年続きましたが、カラカラ帝は西暦212年に「アントニヌス勅令」を出して、ローマ帝国の全自由民にローマ国籍を与えました。

下記の地図の緑と黄色の部分がローマの版図ですが、イタリア半島以外のほとんどが属州でした。この広大な土地に住むすべての者(奴隷を除く)の身分が、一夜にして変わりました。このような大胆なことを深く考えもせずに、カラカラ帝はやってのけました。

このアントニヌス勅令によって属州民がいなくなったため、それまで徴収していた属州税がなくなりました。当然ローマ帝国の財政は厳しくなりましたが、カラカラ帝はそれをあまり気にしていなかったようです。

それよりも、従来のローマ人と属州民の差別を撤廃しようという理想を実現しようとしました。当時のローマ人や属州民がアントニヌス勅令をどのように考えていたのかは、資料が残っていないのでよく分かりません。

ローマ帝国の西隣はパルティア王国で、ティグリス・ユーフラテス川が国境線でした。カラカラ帝はパルティア王国に攻め込みましたが反撃され、戦線は膠着状態になりました。そこで彼は停戦しようと考えて、パルティア王の娘に結婚を申し込みました。

カラカラ帝は、マケドニアのアレクサンドロス大王の崇拝者で、彼の真似をしたのです。アレクサンドロス大王は、ペルシャに攻め込んで国を滅ぼしました。そののちに亡きペルシャ王の娘と結婚して、ギリシャ人とペルシャ人の融和を図ったのです。

アレクサンドロス大王は、敵国を滅ぼした後にペルシャ娘と結婚したのですが、カラカラ帝は現に敵対している相手国の王女に求婚したわけで、状況が全く違います。パルティア王は当然ながらこの縁談を断ってきました。