人種差別の歴史

アメリカの人種差別の歴史を見ていきます。キリスト教には人種差別の発想はありませんが、宗教差別の発想はあります。キリスト教の信者は心が正しく悪いことはしないのに対し、異教徒は心が邪悪なままだ、と考えます。

中世のヨーロッパに住んでいた白人はキリスト教徒で、周辺には有色人種の異教徒がいました。このような環境から、白人=キリスト教徒=心が正しい人、有色人種=異教徒=心が邪悪な人、という図式ができました。そこから、有色人種は心が邪悪だから差別する、という流れができたのです。

アメリカ北部に移住した白人は、家族で農業を営みました。黒人奴隷は不要だったので、奴隷を禁止し、むしろ異質な黒人を排除しようとしました。これに対して南部は、綿花栽培など労働集約型の農業が盛んだったので、黒人奴隷の需要が多く、奴隷制が確立しました。アメリカはイギリスから独立する前に、奴隷を禁止する北部と奴隷を容認する南部の違いが既にありました。

南部の奴隷制擁護者たちは、有色人種=心が邪悪な人という伝統的なキリスト教徒の考え方を援用しました。アメリカに連れてこられたときは異教徒だった黒人奴隷も、アメリカで生活するうちにキリスト教徒になりました。「キリスト教徒になったら黒人も心が正しくなったはずだ」という奴隷解放論者に対しては、「神は黒人を劣ったものとして作った。だから彼らの信仰は表面的に過ぎず、本心からのキリスト教徒ではない」という理屈で対抗しました。

1783年にアメリカが独立した際、黒人奴隷を禁止するか容認するかを各州が決めることになりました。北部の各州は憲法で奴隷を禁止したのに対し、南部の各州は容認したのです。

北部に産業革命が起きて、南部と様々な意味で文化が違ってきました。南部は経済力が大きく人口も多い北部に文化的にも圧倒されそうになったので、自分たちの文化を守るために北部からの独立運動を起こしました。これが南北戦争(1861~1865)です。黒人奴隷を容認するか否か、というのは文化的な違いの一つにすぎません。

南北戦争の結果、黒人奴隷制度はアメリカ全土で禁止されました。しかし、北部の白人とて黒人を差別する点では南部と同じで、アメリカ全土で黒人を差別する状況は、変わりませんでした。

憲法で黒人にも参政権が与えられましたが、政府はさまざまな理屈をつけて黒人の政治的な権利を認めませんでした。社会生活においても、学校やバス・映画館で黒人用の席が指定されたり、黒人はさまざまに差別されました。裁判所は、「分離しても平等」という理由で、このような差別を容認しました。このような明白な差別が、1960年代まで100年間続きました。

1960年代になって、アメリカの最高裁判所は、「アメリカの憲法は色盲である」として、黒人への差別が違憲であるという判決をどんどん出すようになりました。これは、肌の色に関係なくアメリカ国民を形式的に全く同じように扱おう、という考え方です。

以前は白人用と有色人種用の学校が分かれており、レストランの席も分かれていましたが、そういうことがなくなりました。軍隊や官庁でも、有色人種の幹部が誕生しました。

ところが、白人と有色人種との間の所得や教育程度などの家庭環境の格差が残っていたため、これをやっても実質的な白人と有色人種間の格差は無くなりませんでした。そこで、実質的な格差の是正を行う処置がとられるようになりました。大学では、人種別の定員枠を設けたので、白人枠と有色人種枠での合格ラインが異なるようになりました。その結果、入試の成績が良い白人が不合格になり、それよりも成績が低い黒人が合格する、という現象が起きたのです。

企業でも官庁でも軍隊でも、幹部に有色人種枠が設けられるようになりました。このような考え方が、「批判的人種理論」です。1980年代から徐々に盛んになり、年とともにその傾向が強くなっています。

このような「批判的人種理論」を推進しているのが、バイデン政権です。昨年の大統領選挙の時に民主党は、バイデン氏を大統領候補にすることに決めました。大統領選挙は、それぞれの政党が大統領候補と副大統領候補をセットで決めて選挙に臨みます。

民主党は、副大統領候補を最初から、「女性・有色人種」にすることに決めていました。副大統領は有色人種枠だと決めたわけで、これは「批判的人種理論」に従った決定です。そしてこのような枠の中で具体的にカマラ・ハリスという有色人種の上院議員を選んだのです。

このように、「批判的人種理論」の勢力が増えてきて、それに対する批判も激しくなっています。次回はこの「批判的人種理論」の話を詳しくしていきます。

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