毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
林彪は毛沢東の後継者に指名されましたが、それでも不安でした。そこで国家主席のポジションを復活させ、その地位に就くことで毛沢東の後継者の地位を確実なものにしようとしました。ところが、毛沢東は国家主席のポジションに林彪を就けることは考えておらず、両者の関係は険悪になっていきました。
林彪は毛沢東の後継者に指名されましたが、それでも不安でした。そこで国家主席のポジションを復活させ、その地位に就くことで毛沢東の後継者の地位を確実なものにしようとしました。ところが、毛沢東は国家主席のポジションに林彪を就けることは考えておらず、両者の関係は険悪になっていきました。
毛沢東は自分の私生児である華国鋒に将来的に跡を継がせようと考えていたので、それまでのつなぎには小者の林彪が良いと考えていたのかもしれません。
文化大革命のとき、毛沢東は自分に反対する共産党幹部を失脚させようとしました。大躍進運動の失敗で毛沢東の権威が揺らぎ共産党内で毛沢東に対する批...
文化大革命の末期になると、毛沢東も紅衛兵を持て余し、彼らを田舎に追放することにしました。これが「下放」という制度です。表向きは、田舎の農村で農民たちと生活を共にすることで思想改造を図るということにしました。都会の高校生など仕事の役に立たず、理屈をこねるだけで、農民にとって迷惑至極なものでした。
大躍進運動の失敗によって、共産党内部で毛沢東批判が噴出し、彼の地位が危うくなりました。そこで彼は、一般民衆を味方につけて自分を批判する共産党幹部を失脚させ、自分の権力を立て直そうとしました。これが文化大革命です。
大躍進運動が失敗したので、党内では毛沢東を批判する声が高まってきました。その代表が劉少奇と鄧小平です。このままでは自分の地位が危ないと思って毛沢東がはじめたのが、文化大革命です。
大躍進運動によって穀物の生産が激減したのに、側近たちは毛沢東に「大豊作だ」とウソを言いました。そこで毛沢東は、余るはずの穀物を輸出に回しました。その結果、5000万人が餓死しました。
毛沢東は、「支那こそが本当の共産主義国家だ」ということを証明しようとしました。共産主義は、私有財産を否定し全ての生産設備を国有化する、というのが本筋です。農業も個々の農家の土地を取り上げて、多くの家族が一緒になって集団で行うべきなのです。そこで毛沢東は、農業の集団化を行うことにしました。
側近たちは、毛沢東に女を提供するシステムを作り上げました。若い女を集め、ダンスパーティーを催しました。
毛沢東の死去という事実自体が非常に大きな政治的事件ですから、最高幹部や側近たちはその事件によって自分が不利にならないように警戒していました。中でも、自分の判断ミスで毛沢東が死んだという責任を負わないように最大の注意を払っていました。