宗教には、外観の宗教と内心の宗教の二種類があります。
儒教やイスラム教は典型的な外観の宗教で、心の中が正しければそれが外観に現れるはずだ、と考えます。親が亡くなったら、子供は悲しみの余り一切の仕事を辞めて三年間家に籠り、毎日慟哭しているはずだ、と儒教は考えます。神を信じていたら一日5回のお祈りを欠かすはずがなく、コーランの定め通りにラマダン月には断食をするはずだ、とイスラム教は考えます。
外観の宗教は、外観をルール通りにしようともっぱら考えており、外観が内心に合わないから変えようなどとは考えません。
一方、キリスト教や神道は内心の宗教です。カトリック教会は、中世末期に本来のあり方から逸脱して免罪符を売るようになりました。免罪符を買うという外観を満たせばその信者の心は正しいと判断できるから天国に行ける、という理屈です。
これに対してルターは、「免罪符を買うなどという外観を神は一切評価しない。イエス・キリストを信じれば、それだけでいいのだ。神様がその人間の心を正しくしてくださる」と主張しました。まさに内心の宗教です。神道もみなさんが良くご存じのように、「ボロは着てても心の錦」という考え方であり、外観はどうでも良いのです。
キリスト教も神道も、「人間が無私になって神を信じて祈れば、神は自分の心を分けてくれる」と考えています。神の心が付着すれば、その人間は仲間を助けるようになります。仲間を助ける為であれば、現世のルールを破っても構わないと考えます。これがキリスト教のFreedom(自由)であり、神道の誠です。
Freedomや誠が社会を合理的に変革する原動力になり、近代社会を作りました。キリスト教や神道という内心の宗教は、外観を内心に合わせようとします。
西欧や日本にFreedomや誠が生まれるまで、1000年かかりました。イスラム教が生まれてから1400年以上経っていますが、外観の宗教であるためにいつまでたっても自由や誠の考え方が生まれません。やはりイスラム教では、近代社会を作れないのです。
Freedomや誠の考え方が普及しているというのは、非常に幸運なのです。それなのに西欧社会は自ら移民という異分子を大量に受け入れることによって、Freedomの伝統を失いつつあります。日本も移民に毅然たる態度をとらないと、西欧の二の舞になってしまいます。一度失われたFreedomや誠の伝統は、並大抵の努力では取り戻せません。