「月や島などの自然物も人間も、本当は仏(真如)という一体不可分のものである。自然物や人間が個別に存在すると考えるのは妄想である」というのが大乗仏教の主張ですが、おしゃか様はこのようなことを説いていません。日本の仏教がこうなってしまったのには、やむを得ない事情がありました。
支那には小乗と大乗の両方の仏教が伝わったのですが、次第に大乗仏教の勢力が優勢になり、大乗仏教の経典のみが漢訳されるようになりました。日本が仏教を支那から輸入したのはこの後の事なので、日本人は「大乗仏教が正しい仏教で、他の仏教はインチキだ」という先入観を持ってしまいました。また漢訳された経典は大乗仏教のものしか入手できませんでした。
結局日本人は、「おしゃか様は大乗仏教の教えを説いたのだ」と思い込み、他にもさまざまな仏教の教義があったことを明治になるまで知りませんでした。
日本に入った大乗仏教は、「人間はもともと仏様であり、すでに悟っている」と主張しています。そうであれば、人間はわざわざ悟るために修業をする必要などありません。大乗仏教の「人間はもともと仏様だ」という教義を前提とする限り、なぜ修行が必要なのだという疑問を解決することはできないのです。
道元や親鸞などまじめな修行者はこの問題に大いに悩み、なんとか自分を納得させようと悪戦苦闘していました。そこまでまじめでない者たちはめんどうになり、考えるのを止めてしまいました。
比叡山の僧兵たちは、「我々はすでに悟っている」という理由で修業をするのを止め、やりたい放題のことをしていました。今の僧侶たちが実質的に出家をしておらず、結婚して一般人と同じように生活しているのも、心の中で「我々はすでに悟っているから、修業は不要だ」と思っているからなのでしょう。
日本人は、仏教を輸入してから明治までの1200年間、大乗仏教だけが正しい仏教だと信じ込んできました。そしておしゃか様が説いていた教えが大乗仏教とは大きく違っているとは、思ってもいませんでした。