明恵上人は、多くの有力者から信頼された

明恵上人は、一途で優しい性格と熱心な修業態度で、次第に人々の信頼を得ていきました。34歳の時には、後鳥羽法皇から京都郊外の栂ノ尾の高山寺を寄進されそこの住職になっています。この寺は紅葉の名所で、国宝の「鳥獣戯画」があるところとしても有名です。上人の性格を反映してすがすがしい雰囲気が漂っていて、私は大好きです。

また彼は、建礼門院が出家するときに授戒師をとつめました。建礼門院は平清盛の娘で、高倉天皇の中宮(正妻)でした。彼女が生んだ安徳天皇は、源氏と平家が戦った壇ノ浦の戦いの時に、入水して亡くなられました。彼女はその苦(悲しみ)から脱却するために、出家したのです。

人が出家するときに、受戒式が行われます。大勢の僧侶が証人として見ている前で、一番偉い僧侶が新たに出家する者に戒律を授けるのです。この戒律を授ける僧侶が授戒師で、新たに出家した僧侶の信仰上の指導者になります。建礼門院は、心から明恵上人を尊敬していたのです。

余談ですが、出家するときに授けられるのが、戒名です。カトリック教徒は洗礼の時にクリスチャン・ネームを授けられますが、戒名はこれと同じような意味で、いわばブッディスト・ネームです。今の日本人は、戒名を死んだ時につけるものだと思っていますが、本来は生きている時につけるものです。出家しないままで亡くなったら成仏できないだろうと心配した遺族が、あの世で修業せよという意味で授けるのが今の死後戒名です。

さて、1221年に起きた承久の変は、後鳥羽法皇が鎌倉幕府を潰そうとして仕掛けた戦いですが、幕府軍の反撃に遭って朝廷軍は壊滅しました。このときに後に幕府の執権になる北条泰時が幕府軍を率いて京都に乗り込んできました。

幕府軍は朝廷軍の落ち武者狩りをしたのですが、明恵上人は自分の寺に落ち武者たちをかくまっていたために幕府兵に逮捕され、泰時の前に引っ立てられてきました。高名な明恵上人が目の前に現れたので、泰時はその場で上人の弟子になりました。

また、臨済宗を興した栄西は、明恵上人を見込んで自分の跡継ぎにしようとしました。このように多くの有力者が、明恵上人の一途でまじめな性格を慕い、周囲に集まってきました。彼は決して、いい加減なことを言う人物ではありません。