仏や真如などをおしゃか様は説かなかった

日本の大乗仏教の教義は、「月や島などの自然物も人間も、本当は仏(真如)という一体不可分のものである。自然物や人間が個別に存在すると考えるのは妄想である」というものです。しかし、仏教の創始者であるおしゃか様は、こんなことをおっしゃっていません。

むしろおしゃか様は、仏とか真如などというものを考えてはならない、と教えています。これらのものが確かに存在する、という証拠がないからです。それよりも、自分の心の中からものへの執着を消し去ることに努力を集中しなさい、とおっしゃっていました。

自分の大切にしているもの(財産、地位、家族、友人、若さ、健康、名誉など)は、いずれは無くなってしまいます(これを仏教は、諸行無常と表現しています)が、その時に精神的な苦痛を受けます(これを仏教は、苦といっています)。仏教の目的はこの苦痛を味わわないで済むようにすることです。

苦を受けないで済む確実な方法があります。それは自分からすすんで、大事だと思っているものを捨てることです。これが出家です。家族を捨て財産を捨て、社会との関係を断つわけです。そしてすっからかんになって自分の心を見つめ、ものを欲しがる気持ちが再び湧いてこないように気をつけるのです。

おしゃか様は、ものを持たない生活を徹底的に実践しました。王子という地位を捨て、妻子や妾を捨てて、城を出奔しました。捨てられていたボロ布を縫い合わせて衣服とし、早朝に民家に托鉢に行って、前日の夕食の残りをもらって食べ、親しい友人を作らないようにしました。そして家も寝具も持たず、夜は洞窟か木の下で地面にそのままに寝ました。

すさまじい生活ですが、「ものを持たない」ということを合理的に考えると、このような生活になってしまいます。最初のごくわずかな仏教修行者は実際にこのような生活をしていましたが、時代を経るにつれて緊張が緩んできて、ものを捨てないようになりました。

ものに執着して捨てられないままの状態では、修業になりません。そこで仏様とか真如などというものが修業の手助けをしてくれるという理屈を、大乗仏教は作り出しました。このような経緯で、おしゃか様の「仏とか真如などというものを考えてはならない」という教えに反する教義を大乗仏教が作ってしまったのです。

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