「自由のはき違え」や「悪平等」という現象も、大乗仏教の影響によって起きています。
キリスト教の信仰から生まれたFreedomや神道の誠という考え方は、「神と同じ正しい心を持った人が、人を助けるためにすることであれば、社会の法律や約束事を破っても構わない」という意味で、社会性のある言葉です。
日本人はFreedomという外国語の訳語に自由という仏教用語をあてましたが、これはもともと出家した僧侶に当てはまる言葉です。彼は社会から離脱し山の中で暮らしているため、他人を気にする必要もありません。かくして自由という言葉は、「勝手気ままに振る舞う」という意味になりました。
この言葉を憲法で保障したために、多くの国民は「勝手気ままに振る舞っても良いのだ」と勘違いし、「自由のはき違え」という現象が起きました。
キリスト教や神道は、人はそれぞれ異なる役目を持っていると考えます。役目を果たすのに必要な権限も人によって違うので、権限の違いが平等に反するとは考えません。平等は、役目とは関係のないことにのみ適用される限定的なものです。
大乗仏教では、全ての人はまったく同じだと考えます。従ってあらゆることが平等のはずなのです。また仏教の僧侶は社会から離脱しているはずなので、社会の中での自分の役目という発想がありません。これらの理由から仏教の平等は無制限です。平等も憲法で保障された法的な権利なので、多くの国民が「無制限の平等を主張しても良いのだ」と勘違いしました。これによって「悪平等」という現象が起きています。
日本では出家したはずの僧侶も社会生活を続けています。そのために日本人は、社会生活を送りながら、社会から離脱した視点でものを考えることが可能だと考えるようになりました。そこでもともとは社会性のない「自由」や「平等」という言葉を、社会の中で使うようになりました。