流血の大事件によって、国民の腹に新しい体制の大原則が入った

憲法がどういうプロセスを経て出来上がるのか、ということを考えていくとすぐに答えがでません。全くの個人が勝手に草案を書いても誰からも相手にされません。

めぼしい国の憲法制定過程を調べても、最初はぼやっとしたきっかけで始まっています。アメリカは、独立戦争を共に戦った指導者たちの間から「合衆国憲法があったほうがいいなあ」という話が持ち上がって、制定作業が始まりました。

フランスでは、王が三部会(カトリック聖職者・貴族・平民の三つの身分がそれぞれ独自に自分たちの代表者を選出した)を招集しました。ところが平民代表の議員団に聖職者と貴族代表の議員の一部が参加して、「国民議会」なるものを勝手に作ってしまいました。

議員たちは三部会で議論するために国王によって招集されたのであって、勝手に別の議会を作る権限など持っておらず、国民会議は違法なのです。国王は「国民議会」に対して解散命令を出しましたが、国民議会側は王の命令に従いませんでした。そしてこの国民会議が革命を起こし、憲法制定作業をすすめました。

日本は、明治8年(1875年)に天皇陛下が「立憲政体漸立の詔」を発し、憲法制定作業に入ることを宣言されました。

この3カ国はいずれもそれまで成文憲法典を持っておらず、憲法を作る決まった手順などありませんでした。誰かが「これから憲法を作ろう」と言いだし、手探りで憲法制定作業を進めて行ったのです。

この3カ国の憲法制定作業は、憲法が出来上がる前に内乱や戦争という流血の大事件があった、ということで共通しています。アメリカは独立戦争をし、フランスでは革命と内乱がありました。日本も幕末における対外戦争と政敵どうしの暗殺、維新時の内乱などがありました。

これらの流血の大事件を経過することによって、広く国民の腹の底に、新しい体制の大原則がずっしりと居座ったのです。