ペリーが黒船を率いて浦賀にやってきた時(1853)から、明治維新(1868)まで、日本で大騒動が続きました。
思いつくままに並べても、安政の大獄(1858)、桜田門外の変(1860)、寺田屋事件(1862)、蛤御門の変(1863)、薩英戦争(1863)、四か国艦隊下関砲撃(1864)、長州征伐(1864)、大政奉還(1867)、王政復古の大号令(1867)、鳥羽伏見の戦い(1868)、江戸城明渡し(1868)、版籍奉還(1869)、廃藩置県(1871)、などが起こりました。
これらの事件はみな、今ならば新聞の号外が発行され、テレビのニュースやワイドショー・特集番組で朝から晩まで連日報道されるような大事件でした。このような事件が起きるたびに、勤皇志士や薩長の考え方が日本国民の腹の中にズシン・ズシンと入っていきました。そしてこの考え方が、新しい体制の実質的な憲法になっていくわけです。
このような新しい憲法が出来ていくプロセスを、憲法学は「憲法制定権力」という難しい言葉を使って説明しています。この言葉は、時代が激動する時に登場する強力な勢力(例えば、幕末の尊王討幕勢力など)を指しています。「憲法制定権力」が従来の政権を実力で打倒して新しい体制を作り上げた時、国民の心が入れ替わります。そして新しい憲法が誕生するのです。
つまり、憲法制定権力が大事件を次々に引き起こし、そのたびに憲法制定権力の考え方が国民の腹の中にズシン・ズシンと入っていきます。そして憲法制定権力が実力で従来の政権を倒した時、新しい憲法が実質的に生まれるわけです。
では、敗戦後に新憲法の考え方を実現しようとした勢力が、何か事件を起こしたでしょうか。何もありません。国民投票さえなされていません。従って、新しい体制の大原則は、何一つとして日本人の腹に入っていません。実質的な日本国憲法が生まれていないのだから、紙に何が書かれていようとも、それはちゃんと成立した成文憲法典ではありません。
ひと続きのシリーズです。
10月21日 流血の大事件によって、国民の腹に新しい体制の大原則が入った
10月22日 まず憲法ができ、次にそれが成文化される
10月23日 大日本帝国憲法は成立したが、日本国憲法は成立していない
10月24日 日本国憲法が無くても、大して困らない
10月25日 9条3項追加案に反対