幕府の統計資料によれば、江戸中期の日本中の米の生産高は3000万石で、総人口が3000万人です。1人が年間に食べる米の量が平均して1石ですから、話がピタリと合います。
江戸時代の年貢は四公六民といって、収穫量の40%でした。そうすると人口の6%の武士が、自分たちの食べる量の6倍以上の米を得ることになり、人口の80%を占める百姓には必要量の8割5分しか手元に残りません。ここから「貧しい農民は、自分の作った米を食べることができず、ヒエやアワで飢えをしのいだ」などと、変なことを言う歴史学者が出てきました。
武士の他に町人や職人・僧侶などを合わせても総人口の20%ですから、年貢として徴収した米を食べきれず、余った米は捨てるしかありません。これはおかしいと思った学者がいて(私はこの先生の名前を忘れてしまいました)、東北の伊達藩をサンプルにして研究しました。
伊達藩は60万石ということになっています。江戸の将軍が伊達の殿様に米が60万石とれる領地を与え、その代わりに伊達の殿様は軍役(いざという時は1万5千人の軍隊を率いて将軍のために戦わなければならない)や参勤交代などの義務を果たすのです。これらの義務を領内からの年貢24万石でやりくりしなければなりません。
先生は、伊達藩の土地台帳を調べ、領内の米の生産高は120万石だったことを知りました。伊達藩は江戸幕府に対して収入を半分しか申告せず、脱税をしていたのです。伊達藩の実際の税収は、120万石の4割の48万石でした。
次に先生は、伊達藩内の村々に調査に行きました。村役人(庄屋など)は村の実際の生産高を把握していましたが、それを合計すると240万石ありました。百姓たちも藩に対して脱税していたのです。彼らが実際に払った年貢が48万石ですから、税率は20%になります。これは今の日本の税率とほぼ同じです。