江戸時代、全ての生産物をお米に換算していた

江戸時代には、全ての日本人が食べられるだけの米がとれていました。百姓は白い米を食べられず、ヒエとアワを食っていたなどというのはデタラメで、例外的な事例をさも一般的なことのように言ったのです。江戸時代は武士が百姓を絞りに絞った非常に過酷な社会だった、という今の常識もウソです。

明治政府は徳川幕府を倒してできた政権ですから、江戸時代を悪く言っていました。同じように戦後の「文化人」は、戦前の社会を悪く言っています。そして「国家は悪いことをする」という考え方を子供たちに刷り込んでいます。

仙台の伊達藩は、幕府に対しては「領内でとれる米は全部で60万石です」と申告していましたが、実高は240万石ありました。領内の人口が60万人程度ですから、「そんなにたくさん米を作っても誰が食べるのだ」という疑問が起きます。

実は江戸時代は、あらゆる生産物を米に換算して金額評価していました。「麦2石は米1石に相当する」などとやっていたわけで、米は通貨だったのです。伊達藩の徴税役人も村の全ての生産物を米に換算して村の生産高を把握し、それを基に年貢を計算して徴収していました。従って米だけでなく、いろいろな生産物を徴収していました。

伊達藩領内の実際の収穫高が240万石というのも、伊達藩のGDPが240万石だったということで、米が240万石もとれたということではありません。

領内の百姓は、コメ作りは必要な量だけにとどめ、余力を麦や野菜などの農産物の他に、紙、絹布、金属製品などさまざまな工業製品を作ることに振り向け、豊かになっていきました。江戸中期、朝鮮ニンジンの栽培に成功し、健康ブームまで起きました。

奈良県の郡山地方は今でも金魚の養殖で有名ですが、江戸時代の郡山藩も百姓たちに金魚の養殖を奨励していました。税収が増えるのなら、米にこだわらなかったのです。

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