刀狩り

最近、鹿・イノシシ・猿・熊などの野生動物が増えてきたために、農作物が食べられたり人が襲われたりしています。そこでこれらの野生動物を鉄砲で撃って駆除する猟師を増やさなければならなくなっています。そんなニュースを聞いているうちに、「江戸時代も野生動物の害はあったはずだ。豊臣秀吉は本当に農民から武器をすべて取り上げてしまったのだろうか。野生動物を撃つ鉄砲をすべて取り上げたら、年貢を徴収する大名たちも困るはずだろうに」という疑問が沸いてきました。

また私の先祖は百姓から商人になった者で、武士ではありません。それなのに家には、戦国時代に作られた日本刀が伝わっています。そこで「秀吉が刀狩をして、日本中の百姓・町民は刀や鉄砲などの武器を持っていず、丸腰だった」という常識が信用できなくなり、いろいろと調べ始めました。そうしたら、戦後長い間刀狩の実態を研究した学者がおらず、みんな「江戸時代の農民は丸腰だった」と勝手に思い込んでいた、ということが分かってきました。

以下に私が書く内容は、藤木久志先生の著書『刀狩ー武器を封印した民衆』をベースにしています。

秀吉が刀狩をした後の1592年(刀狩は1588年)、摂津国(兵庫県)の鳴尾村と瓦林村は、武庫川の水を争って合戦をしました。双方の人数や武器の数ははっきりしませんが、弓・やり・刀で武装し馬に乗って戦い、数多くの死傷者を出しました。秀吉は事情を取り調べ、83人をはりつけの刑にしたというからよほどの規模だったのでしょう。刀狩後にも農村にはふんだんに武器があったのです。

同じような話は他にもたくさんあります。黒沢明監督の名作『七人の侍』は、武器を持たない農民が7人の浪人に村を守ってもらうというストーリーの映画ですが、こんなことは現実にはありえませんでした。

島原天草の乱の直後の1638年に、山崎家治という大名が反乱のあった天草に3万石の領地をもらい赴任してきました。彼は現地で役人たちから、反乱を起こした領民から取り上げた武器を受け取ったのですが、それは鉄砲324挺、刀1450腰その他で、3万人程度の領民がこれだけの武器を持っていたのです。

百姓たちは3万石の小大名をばかにしていたため、家治の統治がうまくいっていませんでした。そこで家治は没収した武器をすべて返して領民たちと和解しようとして、幕府にお伺いをたてました。そうしたら幕府もこれをOKしました。

幕府も大名たちも、農民が武器を持つことが当たり前だ、と思っていたのです。

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