江戸時代初期の1637年12月から5か月間にわたり、島原・天草の乱が起きました。反乱軍の総数が4万人弱なのに対し、幕府や諸大名は13万の軍勢を催してやっとことで鎮圧しています。この反乱はキリシタンが幕府の禁教令に反対して起こしたということになっていますが、実態は領主の年貢要求があまりに過重だったための百姓一揆でした。
幕府の命令によってしぶしぶ鎮圧に参加した大名たちにしてみれば、反乱を起こされた大名の政治が悪かったために起こった百姓一揆の尻拭いをさせられているだけで、鎮圧しても新たな領土を貰えるわけではなく、まったく迷惑な話でした。だからどの大名たちもやる気がなく、だらだらと戦が続きました。
反乱は佐賀県の島原半島にある松倉勝家の領地と、熊本県の天草諸島にある寺沢堅高の領地で同時に起きました。島原・天草の乱が平定されたの直後の1638年に、山崎家治という大名が反乱のあった天草に3万石の領地をもらい、赴任してきました。
彼は現地で役人たちから、反乱を起こした領民から取り上げた武器を受け取ったのですが、それは鉄砲324挺、刀1450腰その他で、せいぜい2万人程度の領民がこれだけの武器を持っていたのです。
百姓たちは山崎家治を3万石の小大名だとばかにしていたため、彼の領内の統治がうまくいっていませんでした。そこで家治は没収した武器をすべて返して領民たちと和解しようとして、幕府にお伺いをたてました。そうしたらなんと幕府もこれをOKしました。
後世の我々は、江戸時代の百姓が武器を持ってはならなかったと思い込んでいます。ところが実際には、幕府も大名たちも、農民が武器を持つことは当たり前だ、と思っていたのです。農民が武器を持つ権利は、一揆を起こしたあとでも取り上げられなかったのです。