朝鮮高校授業料無償化は、自由と誠の問題

朝鮮高校は、やくざの親分である金一族を讃えています。刑事事件の犯罪者の親玉を褒め称えるなど日本人の常識に反し、許されることではありません。犯罪者を礼賛する教育をすることに正当な理由などなく、朝鮮高校の教員たちの心は正しくありません。従ってこのような教育を行う自由は認められません。

そうなると自由の考え方は、次の段階に進みます。心が正しくない者たちを矯正しなければなりません。実はキリスト教の信仰から来た自由には、このように心がねじれた者に強制をするという考え方も含まれています。もはや就学支援金を支払うかどうかなどは問題にならず、このような変な教育を止めさせなければなりません。朝鮮学校がそれを拒否すれば、学校を閉鎖しなければなりません。

キリスト教の信仰から来た自由では、このように「正しい心で」「人を助けるために行われた場合」にのみ、世間のルールを破ることが認められます。明治になって日本は、Freedom, Libertyをまさにこのようなものだと理解して輸入しました。

ところが輸入した時に、これらの英語を「自由」と訳しました。「自由」という言葉は、古くから日本にある仏教用語なのです。仏教は出家して家族や財産を捨て、ひとり山の中で修行するのが良い、と考えています。他に誰もいない山の中で社会に対する影響など考えず伸び伸びとしたいことをするのが、仏教の「自由」という考え方です。

Freedom, Libertyを自由と訳したことにより、仏教の自由という考え方が法的な権利だ、という誤解が広がってしまいました。自分のやっていることが正しい心から出たことなのか否かは関係なく、自分のしたいことをする権利がある、というようになってしまったのです。

仏教の自由の考え方で社会を安定させることなど、できません。朝鮮高校授業料無償化に関して、国側も裁判所も自由という考え方を誤解しているので、まともに問題を解決することができていません。

Freedom, Libertyは、神道の「誠」という考え方によく似ています。朝鮮高校授業料無償問題も誠というキーワードで考えると、「自由」に基づいて考えた場合と同じ結論が出てきます。

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