名門貴公子の近衛文麿は、日本中の期待を負って首相になった

近衛文麿(1891年~1945年)という戦前の政治家がいました。彼は平安時代に栄華を極めた藤原氏の子孫です。大化の改新で活躍した中臣鎌足が天智天皇から藤原の氏を授かり、以後藤原氏を名乗るようになりました。

鎌足には四人の息子がいてそれぞれが一家を構えましたが、その中でも房前から始まる北家が栄えました。当時は一夫多妻ですから房前の子孫は膨大な数になります。その中でも、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ藤原道長の権勢が格別でした。

平安時代も末期になると家格が固定化し、藤原道長の子孫の五家(近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家)が「五摂家」という最高の家格となりました。以後、明治になるまで五摂家の当主だけが、摂政・関白・太政大臣に就任できました。明治になってから、五摂家の当主は公爵を授けられました。

近衛家は五摂家の筆頭なので、そこの当主は天皇家に次ぐ、日本で二番目の家柄です。そして近衛文麿は、近衛家の当主だったのです。このようなわけで、文麿は将来の日本を背負う貴公子として若いときから英才教育を受けました。

彼は、1916年25歳のときから1945年54歳で自殺するまで29年にわたって貴族院議員であり続け、また枢密院議長、貴族院議長、司法大臣などを歴任し、1937年から1939年にかけて首相をつとめました。

さらに1940年7月にも再度首相に就任しました。しかし大東亜戦争前の難しい政局をうまく切り抜けることができず、1941年10月に首相の座を投げ出しました。大東亜戦争が起きたのは、首相辞職の2が月後の1941年12月です。

日本が連合国に降伏したのは、1945年8月15日でした。それから4カ月後の12月にアメリカ占領軍は、彼に巣鴨拘置所に出頭するように命じました。彼をA級戦犯として東京裁判(極東国際軍事裁判)で裁こうとしたのです。

彼はこの屈辱に耐えられず、服毒自殺しました。

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