是清は15歳で大学の先生になったが、芸者遊びをして先生を辞めた
是清はアメリカに勉強に行ったのですが、本格的に英語を学んだのは帰国後でした。翌年、彼は大学南校(後の東京大学)の教官になりました。アメリカに滞在しさらに1年間日本で英語を勉強しただけの満15歳が英語の先生になれたのですから、当時いかに洋学の人材の層が薄かったかが分かります。
是清はアメリカに勉強に行ったのですが、本格的に英語を学んだのは帰国後でした。翌年、彼は大学南校(後の東京大学)の教官になりました。アメリカに滞在しさらに1年間日本で英語を勉強しただけの満15歳が英語の先生になれたのですから、当時いかに洋学の人材の層が薄かったかが分かります。
慶応3年(1867年)、仙台藩は12歳の是清をアメリカに留学させることにしました。仙台藩は、ヴァンリードというアメリカ商人に旅費や学費を渡しましたが、ヴァンリードは学費を着服してしまい、下男としてこき使い、食事もろくに与えようとしませんでした。
「仲間を助けるためならば、少しぐらい世間のルールから外れても構わないじゃないか」というのが、Freedom(自由)や誠の考え方です。これをやると、周囲の人たちがほおっておかなくなります。Freedomや誠の教えをまじめに実践する人は少ないので、やれば目立つのです。高橋是清はこれを実践しました。
高橋是清は自伝の中で、「世の人は私を楽観論者だといい、自分自身でも過去を考えてみると、何だかそうらしく思う」と書いています。 是清が3...
是清の子供時代は非常に幸せでした。非嫡出子として生まれ養子にやられても、是清はひがみませんでした。自分が育った環境が普通の人とは違うということを本人も分かっていましたが、それがかえって自分には幸運だった、と思っていたようです。
高橋是清は私生児で、生まれてすぐに養子にされ、実母とは3歳の時に一度遭っただけでした
高橋是清は、子供の時にアメリカで奴隷にされました。また、日露戦争の際に欧米で国債8億円を募集することに成功し、昭和初期の恐慌を収拾して、日本経済を再び成長軌道に乗せたりもしています。
Freedomや誠は、外観を内心に合わせようとします。その考え方が社会を合理的に変革する原動力になり、近代社会を作りました。
イスラム教には、「正しい心を持った者が人を助けるためであれば、ルールを破っても構わない」という考え方がありません。いかなる場合でも社会の法律・慣習・宗教のルールを守らなければなりません。イスラム教では、Freedomの考え方が育たないのです。
もしもイスラム教の教義の中に、社会のルールが時代遅れになったから変えても良い、という考え方があるのであれば、イスラム教の教義に基づいて社会制度を変革できるはずです。