まず憲法ができ、次にそれが成文化される

アメリカ・フランス・日本とも、戦争や内乱・革命という流血の大惨事がありました。アメリカはイギリスと独立戦争を行いましたが、その戦争を行っている過程で、「独立宣言」に書かれている自由や平等などの大原則が、国民の腹にずっしりと入りました。

日本も幕末維新の間に暗殺・内乱・対外戦争が相次ぎ、日本人の腹の中に、天皇陛下を中心として統一国家を作り、近代化をすすめるという大原則が、ずっしりと入りました。

これらの国民の腹にずっしりと入った大原則こそが、憲法です。たとえ憲法典として紙に書かなくても、国民の腹にずっしりと入った段階でちゃんと憲法は成立しています。18世紀後半になるまでは、憲法はむしろ紙に書かれないのが普通でした。

イギリスは、2つの革命を経験して、17世紀末には現在の国家体制の大原則が確立していました。しかしイギリス人は、これを紙に書くという作業をしませんでした。イギリスには憲法はありますが、成文憲法典はありません。その代わりに法律の一部や国王と国民との間の契約・判例などを集めて繋ぎ合わせ、一つの憲法体系にまとめあげています。

18世紀になると、国民の腹にずっしりと入った憲法の内容を、紙に書いて成文憲法典にするというやり方が流行りました。アメリカでは、独立戦争が終わった段階ですでに憲法は国民の腹の中にありました。それを当時の指導者たちが細部を詰めて、紙に書く作業をして、「アメリカ合衆国憲法」にしただけのことです。

日本も同じです。「王政復古の大号令」が出て、官軍が幕府軍を制圧した段階で、日本人の腹の中には実質的な憲法がずっしりと入っていました。それをさらに紙に書いた成文憲法典にしようとして、明治8年に「立憲政体漸立の詔」が出され、それを受けて伊藤博文が憲法草案を作りました。

すでに出来ていた憲法を、伊藤博文は詳細に詰めて紙に書き、「大日本帝国憲法」という成文憲法典に仕立て直しただけです。伊藤博文やその配下の数人が、ゼロから憲法を作ったということではありません。

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