吉田家は、先祖代々長州藩の兵学師範の家でした。その家に養子に行った吉田松陰は、長崎に留学して西洋式兵学を学び、このままでは日本は西欧列強にやられてしまうということを理解しました。そこで、西欧列強を迎え撃つ戦略を作るのが自分の使命だ、と考えるようになりました。
松陰が23歳の時、ペリーが浦賀に黒船を率いてやってきました。そこで彼はペリーに頼んでアメリカまで軍艦に乗せてもらい、欧米に留学しようと思いつきました。しかし当時の日本は鎖国していたので、勝手に外国に行くのは重大な犯罪で、下手をすると死刑になりました。
その時に松陰は、誠の考え方に基づいて自分の考えを整理しました。無私になって自分自身の事など考えず、日本のために何をすればよいのかだけを考えました。そして「外国に留学して兵学を学び、日本防衛策を策定することが自分のなすべきことだ」という結論を出しました。その結論がいくら非常識だろうが、国法に反しようが、捕まって死刑になろうが、そんなことは問題ではありません。決まれば実践するだけのことです。
松陰の密航はペリーに拒絶されて失敗し、長州に送り返されました。彼は自宅に幽閉されて死刑になるまでの2年間、長州藩の若い侍たちを教育しました。彼は色々なことを若い藩士に教えましたが、若い藩士たちを最も感動させたのは、松陰の誠に則した生き方そのものでした。
幕末期、多くの武士たちが、誠の考え方に従って行動しました。当時の法律では、大名は将軍に忠誠を尽くさなければなりませんでした。ところが薩摩や長州の藩士たちは、幕府を倒そうとしました。武士たちが脱藩することも重大な犯罪行為でしたが、土佐藩などの藩士は、脱藩して京都に集結して、幕府を倒そうとしました。仲間である日本人のためであれば、当時の法律など破っても構わない、と考えたのです。
欧米は、Freedomという考え方に基づいて革命や独立戦争を行い、近代社会を作り上げました。日本は誠に基づいて明治維新を成し遂げ、近代社会を作り上げました。Freedomと誠は、考え方が非常に似ているのです。Freedomは、誠と訳すべきでした。