日本人は、積極的自由をまったく理解できない

イエス・キリストを信じているために正しい心を持っている者は、いかなる時も正しい判断をするので、勝手にさせても問題はない、とキリスト教は考えます。

では正しい心を持っていない人に対しては、どうすべきでしょうか。予定説は、神様は人間をこの世に送り出す前に、予めその人間の性格・素質・運命を決めておく、と考えます。神様はイエス・キリストを信じることができない人間をも作った、と考えるのです。

イエス・キリストを信じることのできない人間たちに対しては、神様の方も彼らの心を正しくしようとしまぜん。彼らの心は邪悪なままで、隣人愛を実践しようとはしません。彼らは正しい判断をすることができないので、彼らの自主性に期待することもできません。

そこで心が正しい者たちは、社会秩序を維持するために、イエス・キリストを信じることができず正しい心を持てない者たちに対して、積極的に面倒を見てやらなければなりません。即ち、彼らを拘束し、場合によっては奴隷にして、ルールに従わせ働かせることになります。

このように、「正しい心を持っていない者たちに対しては自主性を認めず、強制をする」という扱いを「積極的自由」と呼んでいます。相手に対してこちらの方から積極的に働きかけるという行為なので、「積極的」という名前がついたのでしょう。

日本語の「自由」と言う言葉には、積極的自由の意味はありません。従ってアメリカ人が「自由の名で黒人を奴隷にした」という意味が、全く理解できません。

心の正しい者たちは、自分たちは「消極的自由」を享受し、自主的に行動します。そして正しい心を持っていない者たちに対しては、「積極的自由」を発揮するわけです。黒人たちは、神様からイエス・キリストを信じることができず心が正しくない者として作られているので、奴隷にされ無理やりに働かされたわけです。

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