日本人は、消極的自由を部分的にしか理解できない

キリスト教の信者は、「人を殺してはならない」とか「ウソをついてはならない」「隣人の財産をむさぼってはならない」などという律法(掟)を守らなければなりません。また「隣人を愛しなさい」という教えも守らなければなりません。

ところが現実の社会では、律法と隣人愛とが両立しない場合があります。例えば、露骨な性的描写をしている小説を一般に販売したために、猥褻文書頒布罪で訴えられる、というケースがこれに該当します。最近はこんなことが問題になることは無くなりましたが、私の子供の頃は実際に裁判になっていました。

いわゆるエロ本を出版して儲けることは、刑法的には猥褻文書頒布罪ですが、キリスト教の視点では「隣人の財産をむさぼってはならない」という律法に反する行為です。

一方著者は、「この小説は男女の愛の姿を描写したものである。読者を感動させるには、露骨な性的描写が不可欠である」と主張します。つまりこのような描写をすることによって、読者に男女の真実の姿を分からせてやるのであって、著者の行為は隣人愛の実践になります。

著者がイエス・キリストを信じていたら、彼の心は正しいはずです。彼が「神様ならばどうするだろう」と考えた末に、露骨な性的描写をしたのであれば、キリスト教はこの著者を無罪だと考えます。彼は正しい心で判断したからであり、読者という隣人を助けようとして行ったことだからです。

この時その著者は、「隣人の財産をむさぼってはならない」という律法から自由です。この「律法からの自由」がキリスト教の信仰から生まれた自由の基本です。「イエス・キリストを信じているために正しい心を持っている者が」「隣人愛を実践するために行ったのであれば」、法律や社会のルールを無視する自由があるのです。

「律法からの自由」という考え方から、「表現の自由」「職業選択の自由」などという様々な自由が派生しました。これらの自由は、外部の圧力から自分を守るという受け身の自由なので、「消極的自由」と一般に呼ばれています。

日本人が理解している自由は、この「消極的自由」です。ただし日本人が考えている自由には、「正しい心を持っている者が」「隣人愛を実践するために行ったのであれば」という二つの条件がありません。キリスト教の信仰から生まれた「消極的自由」は、日本人が考えている自由よりずっと厳格なのです。

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