キリスト教や神道は、外観を良くすることが正しいとは考えていない

キリスト教では、人間がイエス・キリストを信じれば、神様はその魂の一部を風に乗せて人間に送ってくれる、と考えます。これが聖霊です。神の魂を自分の魂に付着させて自分の魂のレベルが上がった人間は、そこで初めて自分の欲望を制御できるようになります。

カトリックは一時この教義から外れ、イエス・キリストを信じることよりも免罪符を買うとか教会に寄進するなどという「善行」を重視しました。ところがルターが出てきてカトリックを批判し、「イエスキリストを信じるだけでいいのだ」と主張して、キリスト教を本来の教義に引き戻そうとしました。

神道も、神が風を送ってその魂を人間に付着させ、人間の魂のレベルを上げ元気にする、と考えます。これが「タマフリ(魂触り)」で、キリスト教の「聖霊」と同じ考え方です。日本語の「触れる」という言葉は今は「接触する」という意味ですが、昔は「付着する」という意味もありました。

キリスト教も神道も、神様を信じることによって、神様と人間の間に目に見えない回線がつながる、と考えます。自分の魂に付着した神様の魂が受信機になり、神様のメッセージや考えを受信できるようになります。神様がこの通信装置を通して人間に正しいことをさせ、他人を助けさせます。そうなれば、人間は幸せな人生を送ることができるのです。

支那人のように外観を良くしたところでキリスト教や神道の神様を騙すことはできません。昔の日本人は、「つぎをあてた服を着ることは恥ではない。良く洗って清潔であれば良い」と考えていました。まさに水前寺清子の歌のように「ボロは着てても、心の錦」なのです。

西欧キリスト教社会や日本では、「神を信じて自分の魂を向上させれば、幸せになる」という考えが次第に出来上がってきて、そこから自由や誠の考えが生まれてきました。

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