キリスト教や神道は、神様の魂を付着させて心を正しくしよう、と考えた

支那人や朝鮮人は、自分の気持ちを言葉で伝えることが苦手なために、外から見える形で気持ちを表そうとしました。その結果、外観にとらわれてしまい、社会を真剣に変革することが出来なくなってしまいました。一方、西欧のキリスト教徒や神道を信じる日本人は、人間の心のメカニズムを知ろうと努力し続けました。

自分の欲望を抑え清く正しい心を持って人を助けていれば、神様はその人物を可愛く思って、幸せな人生を保障し、死んだあとは天国に連れて行ってくれます。こんな理屈は誰でもわかっていますが、人間はなかなか心を清く正しく保つことができません。まさにこれが問題なのです。

儒教や初期の仏教は、聖典を学び修行をすることによって自力で欲望を制御することが可能だと考えて、その教義を組みたてています。しかしキリスト教や神道は、欲望は非常に強いため、自力で欲望を制御することはとても無理だと考えています。

自力では欲望を制御できないと考えため、キリスト教や神道は、神から自分の欲望を克服する力を頂いて問題を解決しようとします。それがキリスト教の「聖霊」や神道の「タマフリ」の考え方です。

人間がイエス・キリストを信じれば、イエスは神にその人間を推薦します。そうすると神はその人間に風を送って自分の魂を信者に届けます。神の魂は、その人間の魂に付着してそのレベルを引き上げ、元気にします。神が人間に送る魂のことを、キリスト教では「聖霊」と呼んでいます。聖霊のことをヘブライ語でルーアッハ、ラテン語でスピリタス(英語のスピリット)と言いますが、どちらも風や息のことを指します。

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