前回の「支那で人の遺伝子を操作」の続きです。
キリスト教では、神が一人一人の人間を手作りした、と考えます。どういう両親の元に生まれ、どういう性格と才能を持ち、一生のうちに何をして最後はどうなって死ぬのかをすべて決めてから、神はその人間の魂を地上に送り出します。
非常に幸せな人生を送る人と悲惨な人生を歩む人がいるので、神様の決めたことに人間はなかなか納得できません。しかし神様には人間が思いも及ばないような深い考えがあり、神様の考えたことは常に正しいのです。だから人間は神様の考えに疑問を持たずに従わなければならない、とキリスト教は教えます。
神道も、「子供は授かりもの」とキリスト教と同じように考えます。神様がすることは常に正しいのです。人間の受精卵の遺伝子配列は、神様がそうあるべきだと考えた結果であり、それが不満だからとそれを入れ替えるのは、神様を信用していないということです。
アメリカや日本で人間の受精卵の遺伝子操作しないのは、医者自身が研究のために遺伝子操作をしたくても国民感情が許さないからです。
ところが支那には、神が決めたことが正しい、という発想がほとんどありません。今回の遺伝子操作をやった研究チームは、「将来この分野の市場が大きくなるので、最初に研究成果を挙げて知的財産権を確保したい。そして、先駆者として研究のルールを自分たちが作りたい」と発表しています。
要するに「遺伝子操作をすると儲かって偉くなれるから」ということであって、自分のやっていることが正しいのか、という自問はありません。
「正しいことをしなければならない」という思いがあるか否か、というのが日本やアメリカと支那の違いなのです。
何が正しいかということに拘束されずに得なことをすることによって、相手を出し抜くことができ、短期的には利益になります。一方正しいことをしようとする国民は短期的には損をするかもしれませんが、不正を改めようとして絶えず自浄作用が働きます。そして不合理な世界を変革できるのです。
長い歴史の中で、支那が欧米諸国や日本に引き離されてしまったのは、こういう理由です。
支那が人間の受精卵の遺伝子操作を最初にやったことには、このようにさまざまな問題があります。ところがこのようなことに一切触れず、「技術が向上して良かったね」という報道しかできないNHKは、果たして存在価値があるのでしょうか。