孝を優先する社会は近代化できない

支那の「宗族」は、共通の先祖(父方の)を持つ血族集団で、きちんとした系図(族譜)を持っています。メンバーの数は数千人になるものもあります。

宗族の女性が他の宗族の男性と結婚しても、その女性の先祖は変わらないので、もとの宗族から離脱するわけではありません。夫の宗族のメンバーにはなりません。支那人の夫婦が別姓なのは、こういうから理由です。

「孝」は、両親だけでなく同じ宗族の仲間に尽くすことです。特別に仲の良い友達は「義兄弟」にして、宗族のメンバーと同様に扱います。

支那人は孝を最優先するので、社会的に責任ある立場にあると、本来なすべきことよりも宗族のメンバーの利益を優先します。例えば、県知事をしていれば人事は公平にしなくてはならないのに、宗族を身びいきします。犯罪者は罰しなければならないのに、犯人が宗族なら見逃します。

支那には「裸官」が大勢います。「裸官」というのは、宗族や財産をアメリカなどに避難させ、自分だけが単身で支那に残り、汚職に励む腐敗官僚のことです。自分が捕まる危険を冒してまで、宗族のために頑張るわけです。

キリスト教の自由や神道の誠は、他人のためを図ることです。お互いが助け合うことによって、社会は安定し産業は栄え、近代国家ができます。しかし支那では、他人どうしが助け合わず、宗族が互いに利益を主張して争うので、近代社会ができません。

19世紀、西欧列強はアジア諸国を植民地化しようとしました。そのとき多くの日本人は、自分の利益ではなく一般の日本人のために日本を作り変えようとして、志士になりました。

このような現象が起きたのは日本だけです。他のアジア諸国では、支配者の横暴に対する暴動は起きましたが、大規模な志士活動は起きませんでした。自分の所属する宗族や階級に具体的な被害がなければ、行動を起こさなかったのです。

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