支那人は、他人と助け合わない

「自分のことよりも仲間のために、役目を果たさなければならない」というのが誠という考え方で、これは神道の信仰から生まれました。誠の考え方はキリスト教の信仰から生まれたFreedom(自由)と非常に良く似ています。

神道もキリスト教も、現実社会の中で生活したまま信仰生活を送るのが原則です。この点で、社会を離脱して出家して修行生活を送る仏教とは、宗教の基本が全く異なります。

神道もキリスト教も、神の魂を人間の魂に付着させたら、人間の魂は正しくなり、またエネルギッシュになると考えます。そして人間の魂が正しくなったら自然に仲間を助けるようになるとも考えます。

儒教も人間の心が正しくなったら仲間を助けるようになると考えるのですが、仲間の範囲が神道やキリスト教と違うのです。神道やキリスト教の仲間は、同じ民族や同じ宗教を信じる者たちのことで、非常に範囲が広くなっています。

これに対して儒教の仲間は、同心円を描きます。中心に自分がいて、一番近いところに自分の血縁者(宗族)がおり、その外側を親しい友人が取り囲んでいます。その外側が同郷の者で、一番外に遠くにいる赤の他人がいます。日本人など外国人は、動物並みの野蛮人と考えます。

支那人が助け合う仲間は、実質的には血縁者と少数の友人だけで、その他は助ける必要などなく利用するだけの存在です。支那人が他人と助け合わず自分の利益だけを追求するのは、このような理由からです。その結果、社会が殺伐とし自然環境は破壊され、支那は地獄となりました。

神道やキリスト教は、仲間を助けるためならば法律や社会の慣習などを破っても構わないと考えます。これが誠やFreedom(自由)の考え方です。これによって日本や欧米は社会を改革し近代国家を作り上げました。

支那人の社会には互いに助け合う他人が存在しないので、誠やFreedomの考え方も生まれず、社会を変革することも起こらず、近代国家がいまだに出来ていません。支那の易姓革命は社会の仕組みを変革しようというのではなく、ただ皇帝を入れ替えるだけのことです。

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