日本人は、負け戦だけは二度と経験したくない、と思っています。憲法第9条の改正に反対するのも、「強くなった日本軍がまた悪いことをする」のを心配しているのではなく、「また戦争して負けたら大変だ」と思っているだけなのです。
広島の平和運動などが、「あやまちは二度と繰り返しません」と言っているのも、「負け戦だけはもうしたくない」という気持ちの表れです。それに「イエス・キリスト教を信じないことが罪である」というキリスト教の教義がミックスしています。
ソ連は日本との条約を破って日本を攻撃し、多くの日本兵をシベリヤに違法に抑留し、多くの日本女性を強姦しました。蒋介石が日本との条約を守ろうとせず反日活動をしたのが、支那事変の原因です。アメリカもソ連も支那も日本に対して悪いことをたくさんしたのに、それに対して復讐することができない、反論することができない、という不満が戦後の日本人に溜まっていきました。
このような不満は、宗教の力によって静かな諦観に転換することができます。日本人は伝統的な大乗仏教の教義を利用しました。仏教は、自分の心の平和を保つために全ての大事なもの(家族、財産、地位など)を捨て、出家して社会(浮世)から距離を置いて一人で修業するのを正しい態度だと考えます。実社会(浮世)に係わりを求めず、ひたすら心の鍛錬に励むのです。
戦後多くの日本人は、国の安全保障問題に直面すると、仏教僧のような態度をとって心の平安を図るようになりました。浮世に関心を持つのを止めようと決意している者と浮世の利害関係を議論しても無駄です。「軍備を持たなければ戦争にならない」の一点張りで、それによって実社会(浮世)にどのような問題が生じようと、無関心なのです。
護憲派といわれる日本人は、個人的な生活態度は別にして、政治という実社会に係わる事柄になると仏教の発想で考えています。基本的に実社会に重きを置いていないので、やることが浮世離れしてしまうのです。
日本人はこのような浮世離れした社会感覚からいい加減に脱却しないと、それこそ「負け戦の後のような悲惨な経験をする」ことになってしまいます。