7世紀の飛鳥時代までの日本は、国名を倭と言い、天皇陛下は外国に対して「倭国王」を名乗っていました。倭国王は手紙(国書)を支那の皇帝に送り、皇帝も返事をよこしました。両者の間には国交があったわけです。
ところが日本は、680年頃に国名を「日本」に変え、天皇陛下は支那の皇帝に対して「天皇」を名乗りました。国名の変更は特に問題ありませんが、「天皇」を名乗ることは重大な外交上の問題を引き起こしました。天皇は皇帝と同格の称号です。
世界はただ一人の皇帝によって支配されるべきだと考える中華思想から、支那人は天皇という称号は決して認めることができません。
以後、日本の天皇陛下と支那の皇帝陛下との間の手紙のやり取りは、なくなりました。天皇陛下が、差出人「日本国天皇」と書いた手紙を出しても、皇帝陛下は受理しませんでした。
支那の歴史書には、以前は「倭国王○○の使いである××が来た」と書いてありました。ところが称号変更後は、「日本から使いの△△が来た」とだけ書くようになりました。手紙の差出人の立場を認めないということは、もはや国交ではありません。
何人かの学者は、「当時の天皇陛下は危険な支那の王朝と係りたくなかったから、わざと国交を断絶したのではなかったか」と考えています。
680年以後も遣唐使が行き来しましたが、これは単なる文化交流であって、国交ではありません。日本と北朝鮮間には国交がありませんが、アジア大会などを通じてのスポーツ交流はあります。遣唐使もこのような性格のものと考えるべきです。
この遣唐使も平安時代中期の894年に廃止され、以後明治になるまでの1000年間、一切の国交はありませんでした。
国交は、国家と国家の相反する意思を調整する行為です。その交渉を通じて、相手国の国の成り立ちやもっとも重視する価値観などを知ることができます。日本は1000年間、支那という国を知ることができなかったのです。