支那に、二里近づいた

荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、江戸時代中期の儒学者です。孔子や孟子が説いたもともとの儒教はどういうものだったのかを研究し、後の日本に非常に大きな影響を与えました。

彼は江戸市内から西に二里のところにある品川に引っ越したことがありましたが、その時に、「聖人の国に二里近づいた」と大喜びしたという有名な逸話があります。「聖人の国」とは支那のことで、支那に行きたくて行きたくてどうしようもない気持ちが、良く表れている言葉です。

彼が生きていた時代より50年ぐらい前、支那では明王朝が滅び野蛮人とののしられていた満州人が清を建国しました。その時に日本人は、実際に見たわけでなく亡命支那人の話を聞いただけで「支那は畜類の国になった」と考えました。

荻生徂徠は、一度も支那に行ったわけでなく書物を読んだだけで、支那は聖人の国だ、とまったく逆のことを考えました。

江戸時代の為政者も儒学者も、誰一人として実際に支那に行き見聞を広めた者はいません。みんな書物に書いてあることをもとに勝手に想像して、支那を理解したと誤解していました。

江戸時代の日本人は、このように現実の支那を全く知らず、勝手に思い違いしていることをベースにして、日本と支那は同じ文化を共有していると考えました。そして明治になって、日本人は大アジア主義を思いついたのです。

明治維新の時点で、ヨーロッパ人の方が日本人よりはるかに支那に関する現実の知識が豊富でした。ロシア人は1689年に清と交渉して、満州とシベリア間の国境線を確定しています(ネルチンスク条約)。

1793年、イギリスのマカートニーは乾隆帝に謁見しました。その時に支那人は三跪九叩頭という屈辱的な礼を要求しましたが、彼はこれを拒否しています。支那人がどういうものの考えたかをするかを、実際に経験しているわけです。

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