国債の売り込みには、国家や民族の対立がからんでいた
ポーランドは、ヨーロッパの国としてはめずらしくユダヤ人の移民を歓迎し保護していたので、ユダヤ人が非常に多く住んでいました。そのポーランドが1...
ポーランドは、ヨーロッパの国としてはめずらしくユダヤ人の移民を歓迎し保護していたので、ユダヤ人が非常に多く住んでいました。そのポーランドが1...
日露戦争は、白人と黄色人種との戦いという側面があります。また日本と英国は同盟を結んでいましたが、イギリス王室はロシア帝室と親戚関係にあります。このような感情面の障壁のために、英国政府があまり積極的に日本を応援しないのではないか、といううわさが銀行家の間で広まっていました。そこで是清は、銀行家たちといろいろ雑談をして、日本に対する理解を深める努力をしました。
日本と英国は同盟国でしたが、イギリスはこの戦争に対して局外中立の立場を維持していました。そのため、軍費の調達に協力するのは局外中立の立場に抵触するのではないか、と銀行家たちが心配していたのです。是清はこのような国際法上の問題は無いということを知っていたので、銀行家たちに「君たちの信頼する法律家や歴史家たちに調べて貰ったらよかろう」と提案し、彼らの疑念を解消しました。
財産を失い衣食のために苦慮せねばならぬ身分となれば、時によれば自分の意志に沿わないことでも、上官の命であればこれを聞くことを余儀なくされぬとも限らない。このような境遇の下で官途につくことはよろしくない、と是清は考えました
是清はペルーと日本との合弁の鉱山会社の日本側代表となって現地に赴きました。ところがこれが詐欺事件で、結局是清はこの事業を中止し、株式会社を解散しました。そして是清は全財産を失いました。彼はペルーに行く前に役所を休職していましたが、今さら戻ることもできず、素浪人になりました。
是清はアメリカに勉強に行ったのですが、本格的に英語を学んだのは帰国後でした。翌年、彼は大学南校(後の東京大学)の教官になりました。アメリカに滞在しさらに1年間日本で英語を勉強しただけの満15歳が英語の先生になれたのですから、当時いかに洋学の人材の層が薄かったかが分かります。
慶応3年(1867年)、仙台藩は12歳の是清をアメリカに留学させることにしました。仙台藩は、ヴァンリードというアメリカ商人に旅費や学費を渡しましたが、ヴァンリードは学費を着服してしまい、下男としてこき使い、食事もろくに与えようとしませんでした。
「仲間を助けるためならば、少しぐらい世間のルールから外れても構わないじゃないか」というのが、Freedom(自由)や誠の考え方です。これをやると、周囲の人たちがほおっておかなくなります。Freedomや誠の教えをまじめに実践する人は少ないので、やれば目立つのです。高橋是清はこれを実践しました。
高橋是清は自伝の中で、「世の人は私を楽観論者だといい、自分自身でも過去を考えてみると、何だかそうらしく思う」と書いています。 是清が3...
是清の子供時代は非常に幸せでした。非嫡出子として生まれ養子にやられても、是清はひがみませんでした。自分が育った環境が普通の人とは違うということを本人も分かっていましたが、それがかえって自分には幸運だった、と思っていたようです。