後白河天皇は、親を殺せと命令した

光圀は、「彰考館」という歴史研究所を作り、儒教の学者を集めました。そして彼らに『大日本史』を書かせて、日本は昔から儒教の教えが普及している国であることを、証明しようとしました。

学者たちは古代から順に歴史を書きはじめましたが、保元の乱(1156年)のところまで来て、作業が進まなくなりました。この内乱は、後白河天皇と崇徳上皇の争いに、摂関家や源平の武士たちが加担して起きたものです。

後白河天皇と崇徳天皇はともに藤原彰子の子供で、母を同じくする兄弟でした。もっともこれは戸籍上の話であって、後白河天皇の実際の父親は、戸籍上の父(鳥羽上皇)ではなく他の皇族でした。

このスキャンダルは家庭内だけの秘密ではなく、みんなが知っていました。このような近親憎悪から、後白河天皇と崇徳上皇はものすごく仲が悪かったのです。

当時の武士は、どちらが勝っても一族が生き延びられるように、合戦の際は一族を二つに分け、両方の陣営に味方しました。

源氏も一族を二つに分け、源義朝は勝った後白河天皇に味方し、義朝の父の為義は負けた崇徳上皇に味方しました。

内乱が終わった後、息子の義朝は後白河天皇に対して「自分の恩賞に代えても父の命を助けてください」と泣訴しました。しかし後白河天皇は義朝に対し、「父である為義を殺せ」と命令しました。

為義を死刑にする必要があるのなら、誰かに殺させれば済むはずです。ところが後白河天皇は、わざわざ息子に対して自らの手で父を殺すように命令しました。

儒教では、親を大切にすることが最も重要な道徳です。ところが後白河天皇は、親を殺せ、などと儒教の教えと正反対のことをするように命令を下しました。後白河天皇の反儒教的な態度をどう書いたら良いのか、彰考館の学者たちは困ってしまったのです。