帝王が道徳的でなくても、王朝が滅びない

保元の乱が起きたときの天皇家は、道徳的にメチャクチャでした。

白河上皇は鳥羽天皇(自分の孫)の中宮(天皇陛下の正妻)だった藤原璋子と通じ、後白河天皇を産ませてしまいました。

鳥羽天皇から見ると後白河天皇は、戸籍上は息子ですが、実際は自分の叔父にあたります。だから鳥羽天皇は、後白河天皇をいつも「おじさん」と呼んでいました。

儒教は男女関係にうるさく、おじいさんが孫の嫁に手を出すなど、とんでもなく破廉恥なことです。

さらに保元の乱の時、後白河天皇は自分の家来に向かって、「お前の親の首を斬れ」と命令しました。儒教で最も重要な道徳は、親を大切にすること(孝)です。それを家来に対して道徳に反することを命令するなど、ありえないことです。

このように天皇家が道徳的にメチャクチャだったので、天皇家の権威が失墜してしまいました。保元の乱に続いて平治の乱が起き、さらに源頼朝が鎌倉に幕府を開いて政治の実権を握ってしまいました。

儒教は、帝王は臣下の模範になるぐらい道徳的になるべきだ、と教えます。もしも道徳に反することを続ければ天から見放され、革命が起きて王朝が滅びてしまいます。

だから道徳的に乱れていた天皇家は、源氏に政治の実権を奪われてしまいました。ここまでは儒教の理論通りに進みました。

ところが鎌倉の将軍は、京都の天皇家を滅ぼして自らが日本の名実ともに支配者になろうとはしませんでした。彰考館で学者たちが大日本史を編纂していた時点でも、天皇家は絶えることなく続いていたのです。

日本の歴史は、儒教の理論通りに動いていません。ところが光圀が学者たちに大日本史編纂を命じた目的は、日本は昔から儒教の国だったということを証明することでした。

学者たちは、「どうもおかしな具合になってきたな」と感じ、仕事が進まなくなってしまいました。

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