キリスト教の天職と神道の役目

キリスト教では、神が一人一人の人間を手作りし、その人間に固有の使命と才能を与えます。
神はある人間に国王になる使命を与え、それにふさわしい環境と能力を付与します。別の人間には靴を作る天職を与え、靴屋の家に生まれるようにします。

神から授かった天職を行うことは神の命令ですから、手を抜くことは許されません。靴屋の仕事がうまくいき十分な財産を作ったとしても、敬虔な信者であれば働ける限りは働こうとします。

キリスト教は、天職と才能に関しては不平等は当然だと考えます。しかし交差点で赤信号だったら停まるとか、スーパーで万引きしてはならないとか、セクハラをしてはいけないとか、天職と無関係のところではみなが平等に扱われます。これがキリスト教の平等です。

神道には、家業という考え方があります。武士の家とか造り酒屋の家とか、それぞれなりわいをしている家に個人は所属し、その家の中で自分の役目を果たすのです。

学校を出て企業に勤めたら、その時に企業という家に所属することになります。
会社の敷地内やビルの屋上に神社があることからも分かる通り、日本の企業は神道の考え方でできています。

松下電器産業(今のパナソニック)には、昔は会社専属の神主がいました。そして創業者の松下幸之助は、神様となって「松下幸之助社」に祀られています。

家に所属する人の役目はそれぞれ異なります。大名の家には、家老もいるし茶坊主もいます。それぞれが自分に固有の役目があります。家の中の役目は不平等ですが、それは仕方がありません。

役目以外のことでは、みんなが平等に扱われるべきだ、というのが神道の平等です。

結局、キリスト教も神道も、天職とか役目という自分に固有の領域には平等という考え方を持ち込みません。それと無関係な一般的な領域に限って平等を考えるのです。

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