キリスト教の自由と仏教の自由の混同

明治初期に、FreedomやLibertyという言葉に仏教用語である「自由」という訳語をつけました。

そのために、キリスト教の教義から来た言葉に、「山奥で一人で暮らしているかのように、周囲を気にすることなく、伸び伸びと勝手気ままにふるまう」という仏教の自由の意味が入り込んでしまいました。

また、敗戦により、神道の発想が弱くなり、多くに日本人は仏教の発想でものごとを考えるようになりました。

「自由」についても、仏教的な自由を思い浮かべる人が増えてきました。キリスト教の自由や誠は、神と同じ正しい心で判断した場合に限って、ルールを無視して良い、という考え方です。

仏教の自由には、「神と同じ正しい心で判断した場合に限る」という条件がなく、いかなる場合でも伸び伸びと振る舞っても問題がありません。

戦後になって自由の権利の名のもとに、過剰に自由を主張する「自由のはき違え」という現象が多発したのは、こういう理由です。

子供向けの漫画に過剰な性的表現があり、裁判になったという場合を考えてみましょう。
キリスト教には、「隣人をむさぼってはならない」という律法があります。出版社は子供に害のある漫画を売って利益を得ているので、この律法に違反しています。

これが問題の出発点で、次に「イエス・キリストと同じ正しい心」でこの漫画を出版したのか、が問題になります。出版社の方で「わが社は正しい心で出版した」ことを証明しなければなりません。

仏教の自由では、「正しい心でやったのか」は問題になりません。山の中に一人で暮らしているという前提があるので、他人のことは考慮しなくて良いのです。
無条件で出版の自由があるわけで、特段悪い意図が無い限り、自由は認められてしまいます。

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