伊藤博文

伊藤博文は、長州の足軽出身で、明治政府の総理大臣も務め公爵にまでなった人物です。彼は物事の本質を見抜いて時代の先を見通す力があり、非常に有能な政治家であったことは間違いありません。

彼は幕末にイギリスに留学しており、西洋文明の本質はキリスト教だということを見抜いていたようです。岩倉使節団に参加し、同行者たちに「近代化のために、日本人をみなキリスト教徒にしてしまえ」と主張しました。

博文は、条約改正や富国強兵の実現には憲法制定が不可欠だと力説していてました。彼は明治15年から翌年にかけて西欧に憲法を学びに留学しましたが、普通の学生のように大学の講義を聴きに行ったわけではなく、憲法学の大先生から個人授業を受けたり、各国の君主や有力政治家と憲法に関して意見を交換したのです。

西欧の大学者や政治家のほとんどは、日本が憲法を制定することに賛成しませんでした。各国の為政者は、国民の権利を憲法で保障することで政治が衆愚におちいり、必ずしも国民の幸せにつながらないことを実感していたからです。

また、憲法はキリスト教を基礎としているのに日本はキリスト教国でないことも、彼らが反対する大きな理由でした。現に彼が西欧に行った時より少し前にイスラム教国のトルコが憲法を制定しましたが、うまくいっていませんでした。

このような消極的な意見が多い中でも博文は、憲法制定の作業を推進しました。そして制定した大日本帝国憲法は、西欧の為政者の忠告を聞かず国会の権限を大きく認めたものでした。
当時(明治22年、1890年)としてはかなり先進的な憲法で、日本の国民や西欧諸国が高く評価しました。

日本は富国強兵にまい進していましたが、この実現には国民の積極的な協力が不可欠です。明治の元勲たちは、国会の権限を強くすることにより、政府と国民の一体感を高めようとしたわけです。

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