勾玉は縄文時代からあった

勾玉(まがたま)は、目玉のようにあいた穴が印象的で、魚か胎児のような恰好をしている古代の装飾品です。

勾玉は翡翠(ヒスイ)を磨いて作られており、かつてはヒスイの原石は日本で採れないと思われていました。朝鮮南部でも勾玉が出土するので、ヒスイ製の勾玉は弥生時代に渡来人が日本に持ち込んだ、と考えられていました。未開の縄文人がこのような宝飾品を作れるわけがないという思い込みもあって、誰も勾玉が日本オリジナルの製品だとは考えていなかったのです。

昭和10年代に、富山県の糸魚川で今でもヒスイの原石が採れることがわかり、ヒスイ製の勾玉は弥生時代に日本で作られるようになった、と考えられるようになりました。私も学校でこのように教わりました。

ところが最近になって縄文時代の遺跡が次々に発掘され、ヒスイ製の宝飾品がでてきました。5500年前の三内丸山遺跡からは勾玉の原型と思われるヒスイ製の大珠が出土しています。

大珠は、丸い円盤の中に穴をあけたものです。それから1000年経過した4500年前になると、ヒスイ製の勾玉が作られるようになりました。縄文時代には鉄器がなかったので、どうやってヒスイのような硬い岩石に穴を明けたのかが問題になります。糸魚川沿いの縄文遺跡から工房跡が見つかり、職人は先のとがった細い竹に砂をつけ、それで穴をあけたことが明らかになりました。1時間作業をすると、1ミリぐらい穴があくそうです。

糸魚川沿いに住んでいた縄文時代の職人たちは、磨製石器と勾玉を作っており、勾玉の方は北は北海道から南は九州まで全国に顧客がいました。この時代に専業の職人と商人がいたわけで、すでに社会の分業が進んでいました。

弥生時代に勾玉ブームが起き、糸魚川製のヒスイの勾玉は朝鮮にまで輸出されました。古墳時代は勾玉の絶頂期でしたが、その後ブームが過ぎ去り、勾玉はもはや作られなくなりました。どういうわけで日本人が勾玉への興味を失ったのかは、よく分かっていません。

次回の「神道は縄文時代からあった?」に続きます。

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