私たちは、仏教には小乗仏教と大乗仏教という二つの分派があり、どちらもおしゃか様が説いた教えからかなり変化している、ということぐらいは知っています。
しかしこういう常識が日本にできたのは明治になってからで、江戸時代まではおしゃか様の教えとは大乗仏教のことであり、小乗仏教は誤った教えだ、と思い込んでいました。そもそも日本に入ってきた経典は、そのほとんどが漢訳された大乗仏教の経典でした。
お経は、アーナンダ(阿難)という名前の弟子がおしゃか様の教えを書きとめた、という形式になっています。ところが実際にはおしゃか様の没後千年の間、膨大な数の経典が作られ続けました。
数多くの経典の内容が相矛盾するので、支那や日本の僧侶たちは確かな根拠もないままに、多くの経典を分類整理しました。そして、自分の宗派がよりどころにしている経典こそが本当のおしゃか様の教えなのだ、と主張していました。
支那と日本の僧侶がそんなことをしている間に、西欧列強はインドや東南アジアを植民地にし、仏教の研究をはじめました。19世紀の西欧では、仏教の研究が今では信じられないくらいに盛んでした。
列強としては植民地を統治する必要上、現地人が信仰する仏教を理解する必要がありました。また当時の東南アジアは地理的に西欧からはるかに遠く、未知の世界にあこがれを抱く若い研究者が大勢でました。さらにキリスト教に疑問を感じた人は、全く違う価値観を持つ仏教に興味を持ちました。
第二次世界大戦後、これらの条件がなくなったため、西欧の仏教学は急激に衰退しました。
仏教学は西欧で始まり、それを明治維新後に導入して、日本の仏教学が始まりました。
19世紀の西欧哲学にも仏教は影響を与えています。それが実存主義で、有名な哲学者であるサルトルをおしゃか様の弟子だと考えても、あながち間違いではありません。