仲間と助け合うということ

今まで、途上国の国民は宗族やカーストを同じくする限られた小さい集団の中で助け合うが、先進国の人は見知らぬ他人をも仲間として互いに助け合う、という話をブログで書いてきました。

ここで注意しなければならないのは、先進国の人も人間であれば誰でも仲間にするわけではなく、仲間とそうでない者を区別しているということです。

キリスト教の自由という考え方は、「イエス・キリストと同じ心を持っていること」を仲間に入れるか否かの判断基準にしています。例えば、キリスト教と無縁の野蛮人は奴隷にしても良いと考えていました(「自由の国アメリカは黒人を奴隷にした」)。

先進国の憲法は、国民のみを仲間と考えており、外国人を仲間扱いせず彼らの権利を必ずしも守らなくて良いのです(「 会員制のクラブ」)。

いま欧米で難民や不法移民に対して厳しい姿勢が顕著になっているのも、キリスト教の自由の考え方とそれに基づいた憲法の規定のためです。

生物学的に考えれば、人間が集団を作るのは自分たちが生き延びるためであって、仲間でない者まで助けることは予定されていません。むしろライバルとして敵対します。

人間はうわさ話が大好きで、他人のスキャンダルを話すときなど目を輝かせて大いに盛り上がります。これは、当該人物を仲間に加えても良いのか否かを判断するため、情報収集をしているのです。

人間の集団は、仲間以外の者を親身になって助けるようにはできていません。自分たちに余裕があれば、生活に支障のない範囲で援助する程度です。この考え方は皆さんの常識にも合致すると思います。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする