自由の意味が分からないから、誠に気づかない

明治初期の日本人は、自由と平等という考え方を真剣に研究していました。もしもその理解を誤れば、日本は欧米列強の植民地になってしまうからです。そして、自由と平等の本質を良く理解しました。

伊藤博文はこれらの原理がキリスト教から来たことを早くから理解し、何とかしてその考え方をキリスト教の信仰の伝統のない日本に根付かせようとしました。

伊藤博文、井上毅、金子堅太郎などは、キリスト教の教えと日本の伝統の接点を探し、ついに両者に共通するものがあることを発見しました。このことは大日本帝国憲法の前に書かれている「告文」を読めば分かります。

「この憲法は、皇祖皇宗が子孫に残した統治に関する教えを具体的な形にしたものに他ならない(此レ皆皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス)」

明治時代のように、いつ欧米列強の植民地になるかもしれないという緊張感が薄らぐにつれて、日本人の自由と平等に対する関心が薄らぎ、知識も乏しくなっているようです。

「自由と平等」などというと大げさな感じを受けるのでしょうか、最近は「人権」という言葉が良く使われます。人権という言葉は自由と平等の権利の総称なのですが、その方がソフトな印象を与えるからかもしれません。

今の日本人は自由という言葉の本当の意味を理解していないからでしょうか、この言葉と誠という言葉の意味が非常に似ていることに気がついていないようです。

「浦島太郎」や「花咲爺さん」の昔話を取り上げて、誠という考え方を説明している本もけっこうあります。しかしそういう場合でも、自由と誠が似ているということを説明していません。全く違う文化圏の考え方が似ていることに思いが及ばなかったからかもしれません。

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