出家は、もともとは家も友人も持たない厳しいもの

おしゃか様が実践していた出家は、野外でごろ寝をするような危険極まりない生活なので、女性には無理です。初期の仏教は女性の出家を認めませんでした。女性の出家が認められるようになったのは、寺院が建てられて安全が確保されたあとからです。仏教は「女性は悟れない」という考えが強いですが、このような経緯から生まれた発想です。

おしゃか様は、食事して寝る以外の時間は、自分の心を見つめてものを欲しがる気持ちが出てこないようにすることに費やしました。明日の食べ物を確保するとか衣類を用意するなどという労働は、ものを欲しがる行為なので修行の妨げになります。仏教の僧侶には、労働をするという発想は本来ありません。

毎朝、里に行って昨夜の残り物を恵んでもらう時、修行者は里人と気安く言葉を交わしてはなりませんでした。気安く雑談をしているうちに里人は友人になってしまいます。それは「失ったら苦を感じるような大事なもの」だからです。

初期の仏教修行者は、自分の方から他人に話しかけることはありませんでした。例えば、『スッタニパータ』という最古の仏教経典では、修行者は自分から街中に出て布教活動をするといういわゆる「辻説法」をしていません。「弟子」が出来てしまうと、それが「失ったら苦を感じる大事なもの」になってしまうからです。

このように、おしゃか様をはじめとした最初期の僧侶たちは、「失ったら苦を感じる大事なもの」を真剣に避けていました。合理的に考えれば、「配偶者」や「財産」だけでなく、「家」「寝具」「友人」「師弟関係」なども「「失ったら苦を感じる大事なもの」にあたります。今の僧侶に対して我々が抱いているイメージとはまるで違うのです。

仏教の経典は数多くありますが、ゲテモノのような経典を除けば、主流のほとんどには「ものに対する執着を消し去れ」と書かれています。「少しぐらいものを持っていても目的を達成できる」などと書かれているものはありません。

日本の仏教はものを持つことに甘い大乗仏教ですが、それでも立派な僧侶として一般人がイメージしているのは、杖と編み笠を持っただけで漂泊の生活を送っている「乞食僧」や厳しい修行をしていた道元です。

以下はひと続きのシリーズです。

11月19日 キリスト教・神道と仏教は目的が正反対

11月20日 若いときに出家するという習慣は、仏教から始まった

11月21日 おしゃか様の出家生活は、すさまじかった

11月22日 出家は、もともとは家も友人も持たない厳しいもの

11月23日 仏教は世界的に見ると、勢力は弱い

11月24日 今の日本の社会問題の多くは、神道と仏教の使い分け原則が崩れたことに原因がある

11月25日 FreedomとEqualityの訳語に仏教用語を使ったために、使い分けの伝統が崩れた

11月26日 神道と仏教との使い分けが崩れたために、「国家は悪いことをする」という考えが広まった

11月27日 仏教は、無理してものを捨てなくても良い、と教義を次第に甘くしていった

11月28日 仏教は、欲望を抑えきれない凡人が戦争を起こす、と考える

11月29日 権力を監視するのが憲法の役割、という考え方をマスコミは悪用した

11月30日 憲法に違反することが出来るのは、国家だけ

12月1日 欧米には、国家を監視しなければならない、という発想がある

12月2日 欧米人が考えていたのは、「国家は悪いことをする」ではなく、「権力者は悪いことをする」

12月3日 マスコミは、「国家は悪いことをする」と思い込んでいる

12月4日 マスコミが権力を監視することは非合法であり、不要である

12月5日 地下鉄サリン事件やテロ事件によって、テロ等準備罪の必要性が高まった

12月6日 「国家は悪いことをする」と思い込んだ者たちは、テロ等準備罪に反対した

12月7日 「国家は悪いことをする」という発想が「安倍政治を許さない」を生んだ

12月8日 「国家は悪いことをする」と思い込んでいる者も、一種の愛国者

12月9日 刑事事件の被告は、国家権力からいじめられている者

12月10日 支那や朝鮮が行った残虐行為に言及しない

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