明治になって、武士の家の発想が日本中に広まった

明治維新を主導した薩長出身の政府高官は、幕末の経験から、従来型の武士は近代社会の指導層にはふさわしくない、ということを知っていました。そこで彼らは、もともとの身分にこだわらず有能な者を政府の要職に据えました。

例えば戊辰戦争の際に官軍の参謀総長を務めた大村益次郎は、長州の百姓出身の医者でした。大村益次郎が暗殺された後に帝国陸軍の創設に尽力した山県有朋は、長州藩で雑用をしていた百姓でした。後に彼は奇兵隊に入り、その隊長になりました。

明治政府は、近代的な高等教育を受けた者を政府の要職にしようとして、教育に非常に熱心でした。見どころのある若者を欧米に留学させ、また欧米から外国人を招いて学校の先生にし、日本の若者を教育させました。

短期間で日本は学歴社会になり、生まれによって人を差別することはなくなりました。「四民平等」の社会が実現されたのです。そうはいっても明治初期に高等教育を受けた若者は圧倒的に士族が多かったので、政府や軍隊の中では武士の発想が幅をきかせていました。

武士は家の存続と発展を図ることが務めだと考えていましたが、この考え方が明治政府の各組織にも生まれたのです。江戸時代の家は名門武士が指導者となっていましたが、明治政府の組織ではそれが教育を受けた者に替わったわけです。

武士的な家の発想は、政府だけでなく実業界にも普及していきました。明治時代の大実業家は武士の出身者が多かったのです。三菱財閥を作った岩崎弥太郎は、土佐の下級武士でした。多くの企業を創設した渋沢栄一は、生まれこそ農家の息子でしたが、若くして武士になり一時は徳川慶喜に仕えていました。

明治時代の大企業の多くは、官営事業からスタートしました。八幡製鉄所や川崎重工、三井鉱山など今の大企業ももともとは官営事業所で、武士出身の政府の役人が経営を行っていたのです。

さらに戦前の学校教育も武士の価値観を良いものとして子供たちに教え込んでいたために、武士の家の考え方が産業界など様々な分野に浸透する原因でした。

このようにして、武士の家の発想が近代日本に受け継がれていきました。