大石内蔵助は御家の再興を最優先した

播州赤穂の浅野家5万石の筆頭家老である大石家は、関ヶ原以前から100年以上代々浅野家に仕えてきた譜代の家来の家柄です。

譜代の家来の役目は、第一に事業体である大名家を存続させることであって、殿様個人の幸せを図ることではありません。殿様がバカ殿でこのままでは御家が取り潰される恐れがある時、筆頭家老などの重臣はそのバカ殿を始末して御家を保つことも役割の一つだと考えられていました。江戸時代の御家騒動の中には、バカ殿とそれを入れ替えようとした重臣たちとの争いというケースが実際に何件かありました。

江戸城内で吉良上野介に斬りつけた浅野内匠頭も、そのために自分自身は切腹になり、御家は断絶になってしまったので、バカ殿の一人です(あるいは彼には精神疾患があったかもしれません。そういう内容の本を書いた精神科医もいます)。

浅野内匠頭の個人的な事情を考えれば、吉良上野介に恨みがあったから斬りつけたわけで、家来としては主君の恨みを晴らすために復讐をするべきかもしれません。しかし筆頭家老の大石内蔵助は、そのようなバカ殿の個人的事情を配慮する余裕などなく、まずは取り潰された御家の再興を図ることが最優先課題でした。

ところが御家再興が失敗したので、その時点で大石内蔵助などの遺臣たちは復讐に目的を変更します。この復讐が、とりもなおさず誠の問題でもあるわけです。

これから事件の概要を説明します。江戸幕府は毎年、朝廷に新年のあいさつのために使者を派遣していました。そこで朝廷も毎年春に答礼の使いを幕府に派遣していました。元禄14年(1701)、幕府は朝廷からの答礼使に対する接待係に浅野内匠頭を任命しました。

そして朝廷からの答礼使が将軍綱吉に会うその日に、浅野内匠頭が高家の吉良上野介を江戸城内の松の廊下で斬りつけました。高家は幕臣に対して礼儀作法全般を指導する役目の旗本のことで、名門が選ばれました。

吉良上野介は足利氏の出で、由緒正しい源氏です。4200石の石高の旗本で、事件当時は朝廷からの答礼使を接待する儀式を浅野内匠頭に指導していました。

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