是清はひがまなかった

是清は、実母であるきんと3歳の時に一度だけ逢っていますが、その時の様子を『高橋是清自伝』は次のように書いています。

「養父母高橋覚治と文の二人は私を抱きあげて、内揃うて、赤坂の氷川神社に参詣した。するとたまたま境内で私の生母きんと邂逅した。きんとふみとは、互いに見知り合いの仲であったから、早速挨拶を取り交わした。その時生母は十八歳、丈高からず・・・眉目秀麗で髪は髷に結い・・・」 きんはかなりの美人であったようです。息子の是清も立派な顔をしています。

「養父母らはあらわには告げはしなかったが生母は心中さてはこれが我が子であったかと、私を見つめて、懐かしさと嬉しさに心取られ、恍として側を離れえなかったそうだ。養父母の方では、そうした生母の姿がいかにも恩愛に溢れ、親子の情切なるものがあったので、生母の意中を察して、涙ながらに別れを惜しんで袂を分かった。これが私が生母に対面したそもそもの始めで、また最終であった」

きんは、その後塩肴屋と結婚して娘を産み、亡くなりました。

また自伝には、「高橋家は足軽格でも、苗字帯刀を許されておったので私の生家川村家とは、始終往来した」と書かれています。実父の川村庄右衛門は御用絵師だったので、幕府直属の武士だったでしょう。

足軽は一般的には百姓身分であって武士扱いはされず、苗字を名乗ることもできません。しかし養家の高橋家は苗字帯刀を許されていたので、武士の扱いを受けていたわけで、川村家と高橋家は武士どうしだから親しく付き合いができたわけです。

養父母は優しく、特に養祖母は是清を非常にかわいがっていました。是清の子供時代は非常に幸せでした。非嫡出子として生まれ養子にやられたらひがんでしまうこともあるのに、是清はひがみませんでした。自分が育った環境が普通の人とは違うということを本人も分かっていましたが、それがかえって自分には幸運だった、と思っていたようです。

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