大乗仏教は、国家は悪いことばかりする、と考える

初期の仏教修行者は、ものをすべて捨てて俗世の人間関係を断ち、山の中に一人で修行をしていました。修行者が世俗の人と接触するのは、人里に托鉢に行き食事を恵んでもらうときだけでした。

僧侶が世俗の人に仏教の話をする「説法」も、おしゃか様など初期の修行者はしていません。「説法」をすれば、修行者と世俗の人との間に人間関係が生まれ、世俗の人が「失ったら精神的な打撃を受ける大事なもの」になってしまうからです。最初期の経典には、「修行者は里人と気楽に交わってはならない」と書かれています。

大乗仏教は、「俗世間から離脱し、ものを持たない生活をする」という修行を大幅に緩めた宗教です。僧侶たちは、家族を持ち、財産を持ち、俗世間にどっぷりと浸かっています。ところが仏教の教えは相変わらず、ものを捨て、人間関係を断ち、俗世間に関与しない修行生活を理想にしています。

このような矛盾が永く続くと、「自分はたとえ俗世間で生活していても、俗世間から離脱した視点で社会を批判しても構わない」、と考えるようになります。僧侶だけでなく、俗人の仏教信者までもこのように考えるようになります。

仏教の教えから見たら、世俗の社会は欲望を抑えられない未熟な者たちに満ちた場所です。このような者たちが国家を作っているので、国家はすぐに戦争を始め、悪いことをするのです。大乗仏教の発想に染まると、「国家は悪いことをする」と自然に考えてしまいます。

俗にサヨクとかリベラルとか言われている人たちが、「とにかく戦争はいけない」「戦前の日本は悪いことをした」と主張しています。彼らは現実の社会をどうするかを考えているのではなく、社会から離脱して山の中で生活している出家者の視点でものを考えています。

学校の先生には現職の僧侶が多数います。公務員は兼業を禁止されていますが、彼らは特別の許可を受けています。学校教育によって、子供たちはかなり仏教の発想を植え付けられています。またお祖父さんやお祖母さんの影響も受けることもあるでしょう。

また多くの古典は仏教の発想で書かれています。例えば、『平家物語』は源平の合戦について書かれている物語ですが、その根底には仏教思想が流れています。それは、冒頭にいきなり仏教思想が出てくることからも分かります。

「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ」

「平清盛など国家の中枢にいる者たちは、みな修行の足りない未熟者ばかりだ。彼らが欲望のままに勝手なことをやったために、戦乱が絶えず人々は苦しんでいる。国家はろくでもないことばかりする」というのが、平家物語の主題です。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする