宗教を分かっていないから、自由と平等の重要さに気づかず、主権にこだわる

「大日本帝国憲法の原則であるFreedomとEqualityの考え方が、明治よりもはるか前から日本にあった」、ということを日本の学者は指摘しようとしません。Freedomを明治初期に自由と訳しましたが、誠と訳すべきでした。

欧米では自由を求めて革命が起き、何十万人という人間がそのために戦って死んでいます。しかし、自由のために死のうという日本人はいないでしょう。このような単純なことから考えても、Freedomと自由とは違う、ということを直観で分かりそうなものです。

Freedomと自由は違うということを指摘する学者は、私の知る限りでは東大名誉教授の小堀桂一郎博士や中村元博士・鈴木大拙などわずかしかいません。大日本帝国憲法の告文に書かれている内容の重要性を指摘した学者も、いないようです。

なぜこのようなことに多くの学者が気づかないのか私も理由が良く分かりませんが、おそらく宗教をよく分かっていないからではないかと推測しています。日本の政治学者や経済学者の多くはキリスト教をよく勉強しています。それは欧米の学説を理解するためには、キリスト教の知識が不可欠だからです。

しかし彼らに、「牧師がよく説教の時に使う『聖霊の働き』という言葉は、どういう意味ですか」と聞いても答えられないと思います。これは、神が人間に自分の魂の一部を分けてくれる、というキリスト教の教義の中でも最も重要なものです。

また多くの学者は神道をまともな宗教とは考えておらず、合理的に考えることができなかった古代人が考えた幼稚な宗教だ、としか考えていません。宗教学の主流は、神道を宗教ではない、としています。また仏教については、知識も関心も無いようです。

キリスト教と神道・仏教が分かっていないから、学者はFreedom(自由)とEquality(平等)の重要性を実感できないのだと思います。その重要性が実感できないから、民主主義とか主権在民などと、「誰が政治を行うのか」という問題に関心が集中してしまうのです。

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