主権者にこだわるのは、自由と平等の意味を十分理解していないため

大日本帝国憲法にはいくつかの欠陥があります。例えば内閣総理大臣は憲法に規定がなく、慣習によって天皇陛下が任命していたにすぎないために権限が弱く、各大臣に睨みがききませんでした。そのために、陸軍や海軍の大臣が閣内でわがままを通しました。

しかし欠陥のない憲法など存在しません。社会が変化するにしたがって、憲法制定当時は想定しなかった問題が次々と起こってくるのです。憲法は絶えず改正して機能を保っていかなければなりません。大日本帝国憲法は完全ではありませんでしたが、まともな憲法でした。

ところが敗戦後の憲法学者やマスコミは、大日本帝国憲法をボロクソに言っています。その最大の理由は、天皇陛下が主権者と規定されていて国民主権になっていない、ということです。しかし憲法で一番大事なのは、誰が主権者かということではなく、何を目的とするかです。

大日本帝国憲法も日本国憲法も、まともな諸外国の憲法も、その目的は国民に自由と平等を保障することです。この二つの原理によって欧米や日本は先進国になり、社会は豊かで安定しています。自由という考え方の中には、国民を犯罪や外国の脅威から守るという安全保障も含まれています。

日本人の多くが、憲法が保障している自由と平等よりも、誰が主権者かということにこだわっているのは、自由と平等の重要さをよく理解していないからだ、と私は考えています。

FreedomとEqualityというキリスト教の信仰から生まれた考え方に、自由と平等という仏教用語を訳語としてあてはめたのですが、キリスト教と仏教はその内容が極端に違うので、FreedomやEqualityと自由・平等はその内容が大きく違います。

そのために多くの日本人は、自由と平等という考え方が近代国家の中心にあるということを実感できず、主権者が誰かという手段に目が行ってしまします。

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