天皇陛下が主権者だと認めたくない学者が、戦前の日本に多くいた

社会生活の様々な場面で事件が起きます。例えば、酒を飲んで車を運転して事故が起きます。このような事件を自由や誠に照らして解決するために法律が作られています。酒飲み運転をした者は自由や誠に反することをやったので、刑法の規定によって有罪になります。また被害者に対して誠を尽くさなければならないので、民法に基づいて賠償金の支払いを命じられます。

つまり法律は、日常生活で起きる様々な場面で、自由や誠という大原則を具体的に行うために存在します。自由や誠を行うのが目的で、法律を作るのは手段です。従って、自由や誠に反する法律は最初から無効です。これが法律学の大原則です。

飲酒運転を罰する法律を、民主的に選ばれた国会で議決することもできますが、専制君主が独裁的に決めることもできます。両者はまったく同じ内容の法律です。アリストテレスが主張するように、「何人で政治を行うかは手段の問題であって、どういう法に基づいて政治を行うのかという目的の方が大事だ」、というのはその通りなのです。

ところが日本では、「正しい法によって政治を行う」という目的よりも、「みんなで政治を行う(国民主権)」という手段の方を重視する傾向があります。

戦前の憲法学者の中には、大日本帝国憲法が天皇を主権者だと定めていることを否定しようとする者が多くいました。そのうちの一人が東京帝国大学教授だった美濃部達吉博士で、彼の唱えた学説が「天皇機関説」です。

この学説は、「日本という国家が主権者であって、天皇陛下は主権者ではない」というものです。天皇陛下は議会や裁判所と同じように国家の機関(組織)の一部にすぎないのです。

主権者は君主あるいは国民で、どちらであるにせよ主権者は人間だと考えるのが、世の常識です。ところがこの説は、国家という抽象的なものを主権者としています。なんとかして天皇陛下が主権者であることを否定したい、という意図が感じられます。

美濃部博士はドイツに留学した時に「皇帝機関説」という学説を学びました。そしてドイツの皇帝陛下を日本の天皇陛下に置き換えて、「天皇機関説」を唱えました。

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