人間はみな同じという大乗仏教の教義は、多くの問題を引き起こしている

明恵上人は、「自然物も人間も、本当は仏(真如)という一体不可分のものであり、別のものではない」という日本の大乗仏教の教義を、本気で信じていました。

人間である明恵上人と自然物である島や月は、仏(真如)が歪んで個別に見えただけのことで、本当は一体不可分なのです。島と人間は同じものだから、人間に手紙を書くのであれば島に手紙を書いて何が悪い、というわけです。

ほとんどの日本人は、大乗仏教のめんどくさい教義などに興味はありませんが、人間と自然は一体だ、という大乗仏教の教義はしっかりと心に染みついています。

自分も他人も本当は仏(真如)という一体不可分のものであれば、自分と他人の性格や能力の差などないことになります。日本人がなかなか個性の差を認めようとしないのも、大乗仏教が主張する教義からきています。

日本の教育が英才教育や落第・飛び級をなかなか認めようとしないのも、この大乗仏教の教義が原因です。戦前の学校では落第や飛び級が当たり前にありましたが、それは戦前の日本では神道の力が強く、仏教は今ほど強くなかったからです。ところが戦後になって「日本が負け戦をしたのは、天皇制を柱とする神道のせいだ」という宣伝がなされて神道の勢力が弱くなり、その分だけ仏教が社会に与える影響力が強くなったのです。

人間は、不平等に生まれついています。親の遺産、家庭の円満さ、容姿、性格などみな同じではありません。親の職業を継がなければならない者もいるし、サラリーマンの子供に生まれる者もいます。そもそも男と女では、社会で果たす役割が同じではありません。人間はそれぞれが、独自の社会的立場を持っています。

ところが大乗仏教は、それぞれの社会的立場の違いを考えずみんなを全く同じように扱うことが正しいと考えます。そこから悪平等という現象が生まれてきます。また、全ての人間はみな同じという考え方から、民族性の違いをも認めようとしません。

日本人は、支那人と朝鮮人が自分たちと同じだと考え、彼らも日本人の好意には好意で報いるだろうと思い、明治以来今まで彼らを様々に支援してきました。しかし彼らは日本人の好意を自分たちの都合の良いように利用しただけでした。

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