大乗仏教は、全ては仏という一体不可分のものだ、と主張している

明恵上人が、故郷の浜の沖にある無人島に宛てた手紙には、大乗仏教の教義も書かれていました。我々が学校で教わることとは全く違う論理で書かれているので、意味を理解するのが大変ですが、一応手紙の通りに書いてみます。

島とは、人間の欲望によって現実の姿をとったものです。物質も真如であって、真如は仏と不可分に結びついたものです。また真如は人間そのものです。つまり、心を持たない物質である島と人間と仏とは、同じ真如であって違うものではありません。島は仏の身体である真如が具体化・個別化したものであって、仏そのものなのです。

これから、この手紙の意味を説明します。

大乗仏教は、智恵と知識は違うと考えています。智恵があると、対象を分析せずに全体を一つの統一体として、直観的に理解することができます。悟ると知恵が備わります。

これに対して知識は、対象を部分に分けて理解すること(分析)によって得られるものです。欲望を制御できずものに執着している未熟者が、知識を求めます。分析することを、大乗仏教では分別(フンベツ)と言います。日本では、フンベツを持つのが世間をうまく渡っていくのに必要だと考えられていて必要悪と考えられていますが、仏教の教義ではフンベツは良くないことです。

言い方を変えると、赤ん坊は対象を分析することなどしない仏のような存在ですが、大人は小賢しく対象を分析してあれこれと下らないことを考え、悟りから遠ざかる、ということです。

つまり大乗仏教が主張しているのは、宇宙の真実の姿は一体となったものだ、ということです。この一体となったものを真如或いは仏と言います。

それを小賢しく分析し始めると、仏(真如)の真の姿が歪んできて、さまざまなものが個別に存在しているように見えてきます。その結果、島や人間などが外界に存在する、と錯覚するのです。

「島も月も他人も自分も、本当は仏(真如)という一体不可分のものであり、別のものではない」というのが、日本の大乗仏教の根本的な教義です。

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